December 28, 2011

余熱

寒くなってくると、熱い風呂が心地よい。ガスで沸かす風呂にはたいてい「追い焚き」の機能がついているが、わが家の「追い焚き」のボタンには「あつく」と書いてある。それを押すと、女声で「あつく」としゃべるのが愛嬌である。

追い焚きのときには、焚くと同時にポンプが回って湯を循環させる。タブの中の冷めた湯を外のボイラーで加熱して元に戻すのだが、ボイラーに火がともっている間は表示部に炎のアニメーションが出て、ポンプの回っている音もする。

面白いのは、炎の表示が消えてもしばらくはポンプの回っている音がし、実際に湯が循環していることである。大体1分間くらいはその状態が続き、やがてポンプも止って静かになる。

つまり、炎が消えてもボイラーはまだ熱いので、その余熱で湯をもう少し暖め続けているのである。たとえ1分間といえども、十分に熱い状態にあるボイラーを有効に利用しようとする、このしくみを設計した人には頭が下がる。

「余熱」という言葉は、「余計」という消極的な印象よりも、「余裕」という積極的な印象を与える。「余」という漢字は、もともと、スコップでゆったりとのばし広げることで、ゆとりのあることだという。人生もこのように生きることができたらと思う。

もちろん、今年の原子炉の「余熱」のように、熱がいつまでも下がらないのは困る。人間も熱でカッカとするのではなく、ほかほかとした暖かさでいきたい。

寒いとどうしても暖かい話を求めてしまうのはやむを得ないが、今年もあとわずか。イギリスの詩人シェリーの「冬来たりなば春遠からず」(If winter comes, can spring be far behind?) ということで今年を終えることにしたい。

よいお年を。

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November 30, 2011

長老

16年前、阪神・淡路大震災の直後、ある数学の雑誌に「日記」を連載していた。1回目が4月号で、原稿の締切が2月の初めだったように記憶している。12か月に渡った連載は、震災について「震災」という言葉を一切使わずに書く、という形式を守って書いてみた。

その第11回目に「長老は元気だ」と題して、地元の言語学会(関西言語学会)に行ったことを書いた。関西言語学会の20周年を記念しての、理論言語学のパイオニアの先生方が勢揃いした、今にして思えば豪華なシンポジウムだった。

先週末は日本言語学会の秋季大会があった。1995年の学会の会場校であった大阪外国語大学が統合された先の大阪大学で開かれたというのも面白い偶然だった。ここは12年前まで勤めていたところなのだが、その後、ほとんど行く機会がなく、実に久し振りだった。駅から上っていく坂からして大きく変わっていて、まるで初めての大学に行く気分だった。

ちょうど一年前にも日本言語学会について書いた。そのときは場所に深い意味があると思わず書かなかったが、仙台だった。もちろん、その半年後に起こることなど誰も予想していなかった。

学会ではないが、日本私立大学協会の秋季総会が10月に青森であった。これも、昨年の東北新幹線の新青森までの開通を祝ってすでに計画されていたことである。3月以降、開催地を変更するかという話にもなったらしいが、こんなときだからこそ、という心意気で予定通り開催されたと聞く。結果は、東北支部の力がこもった、すばらしい総会だった。

去年も書いたことだが、学会の楽しみの一つは懇親会である。見知らぬ土地の場合には珍しい料理も楽しみだが、久し振りに直に会う(最近はネット上でしか「会う」ことのない人も多い)人と話をすることが貴重な時間である。

しかし、最近では、こういう場で世代の差を感じるようになった。そもそも、こちらが話をしたいと思う「若い」人はあまり懇親会に来ない。一つには飲食物の質に対するコストパフォーマンスの問題かもしれない。「年寄り」と話をしても面白くないということもあるだろう。

そして、16年経って、自分が、「長老」とは言えなくても、「年寄り」に分類される方に入っているかもしれないことを自覚した。気がついたら同年代の研究者と「近ごろの若い者は」のような愚痴をこぼし合っていたからである。

頑固で敬遠される年寄りになりそうな自分を恐れる。

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October 31, 2011

美学

Apple 社の前の CEO、Steve Jobs 氏が亡くなってからもうすぐ1か月になる。すでに、この伝説の人について、各方面で様々なことが語られており、その早すぎる死を惜しむ声が圧倒的だ。

自ら作った会社をいったん追放され、その後、呼び戻されて会社を立て直すという波乱万丈の生涯はよく知られている。20年近く前、前任校の文学部の学生向けにコンピュータの授業をしていたことがあった。そのときに使用したのは、彼が追放されている間に作ったNeXT社の製品である。日本で最初に大量に導入した大学であったことが懐しく思い出される。

NeXT というコンピュータは今日の Macintosh の原形をなすもので、Jobs氏のいない Apple 社の作っていた、当時の Macintosh とは一線を画すものだった。UNIX OS を採用しながら、洗練された美しい GUIを用意し、いわゆる文科系の学生にもとっつきやすいものだった(と思う)。

コンピュータのデザインで美しさというのは大事である。それも単なる「機能美」にとどまるのでは、ともすると無味乾燥になり、飽きがくる。毎日見つめながら仕事をする機械であるのだから、我慢しながら使うようなものであってはならない。

「形から入る」という言い方がある。これは、「外見より中身」という実質的な発想にあえて水を差す言い方なのかもしれない。よい中身はよい形が用意されてこそ実現するということだろう。

今日の Apple のような大会社になっても、仕事をやめる直前まで、Jobs 氏は自社の製品のデザインに目を光らせていたと言われる。新製品の発表も、「制服」とも言える黒のタートルネックとジーンズ姿で自らおこなっていた。これも彼なりの「形から入る」プリゼンテーションの美学だったのだろう。

「制服」と言えば、同じような意味だと思ったのは、先日の創立120年記念シンポジウムの基調講演でのコシノヒロコさんの言葉である。自分の娘たちを松蔭中高に入れたのは「制服がかわいかったから」だという。これも、何よりも形を大事にするデザイナーの発言であるだけに、よく考えると意味深い言葉である。

教育ではもちろん中身が大事である。制服などは二の次と考えるべきなのかもしれない。しかし毎日着る服に愛着がもてなくては学校に来る気も起こらないだろう。キャンパスがゴミだらけでは勉強する気も失せるだろう。われわれ学校関係者は、生徒・学生たちによい教育を提供する義務があるが、中身だけでなく、形の面でもよい環境を提供する必要があると、あらためて思う。

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September 30, 2011

檀尻

「だんじり」というのは、山車(だし)の主に関西での呼び方である。語源については様々な説があり、漢字表記はあてにならない。「檀」は「まゆみ」という木の名前、あるいは「檀那」「檀家」の一字目だが、山車とは結びつかない。

語源はともかく、家の近くの駅前で毎年恒例の「だんじり練り回し」が先日おこなわれた。これは、駅前の数十メートルほどの直線を全力疾走でだんじりを走らせ、正面の酒店にあわやぶつかるかというところで制動をかけてとめるということを2、3回繰り返すものである。

20数年前にはじめて見たときにはひやひやして見たものだが、最近では制動を早目にかけるようになったのか、結構手前で止まるので、心臓には優しくなっている。

だんじりは近くの神社のもので、2つある。一つは「保存会」の役員が乗り、制動役の2人も長老と思われる人である。おそらく一番偉い人が太い木の棒を地面に突き立ててだんじりを止めるという大役をまかされるのだろう。もう一つは「青年会」の人たちが乗る。「青年」といっても、40代、50代である。

今年も、この神社の総本社になる神社から応援のだんじりがもう一台来て、合計3台の練り回しとなった。驚いたのは、応援のだんじりは「青年会」のものかと思われるが、アフロのかつらをかぶった、本物の「青年」が乗っていたことだ。そして、どのだんじりにも、女性が乗っていたが、今ではこれもごく普通のことになっている。

関西のだんじりと言えば、街中を疾走する岸和田のだんじりが有名である。こちらは全力疾走のまま90度の方向転換をすることで度肝をぬく。今の岸和田のだんじりはどうか知らないが、昔は、当然のように女性禁制だった。しかし、それが思わぬ結果をもたらすことがある。

来週からNHKではじまる連続ドラマでは、「女だてらに」だんじりに乗りたいと思ったヒロインが、その夢の代わりに洋服作りに向かう。娘3人をファッションデザイナーとして育てた、実在の小篠綾子さんがモデルであり、娘はそれぞれ、ヒロコ、ジュンコ、ミチコさんである。本学では中高や短大の縁で、ヒロコさんとミチコさんに客員教授を委嘱している。

来年創立120周年を迎える松蔭は、10月22日に国際的に活躍している卒業生を迎えてシンポジウムを計画しているが、コシノヒロコさんにも基調講演をお願いしている。もちろん、だんじりの話ではなく「人生をデザインする」というタイトルだが、疾走感のあふれる話が楽しみである。

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August 31, 2011

優良

5年に一度の運転免許証の更新に行ってきた。前回は普通の更新センターに行ってひどく時間がかかったが、近くて交通の便もよいところに「優良・高齢運転者更新センター」というのができたので、そこに行ってみた。

もちろん、区分は「優良」の方である。5年間無事故・無違反であったためである。実際、この5年間、車を運転することがほとんどなかったのであるから、当然である。

ここでは、事故などの件数の絶対的な少なさで「優良」さを測っている。運転の時間に応じての相対的な事故の発生割合にした方が合理的であるようにも思うが、そもそも運転の時間を測ることがむずかしいので実現性は低いだろう。また、全く運転しない人は、割合が 0/0 という不定の数になってしまうので、「優良」であるともないとも言えなくなり、かえって不合理になる。

過去5年間に一度も事故を起こさなかったのだから「優良」と言ってよいのではないか、という見方もできる。しかし、この考え方の危険なところは、今後の5年間に事故を起こさないことが保証されないということだ。

運転の時間の長い人が全く事故を起こさなかったのであれば、今後も事故を起こさないだろうと予測されるが。そもそもあまり運転していなかった人が(たまたま)事故を起こさなかったからと言って、何の予測もできない。というより、むしろ、運転に慣れていない分、事故を起こしやすいかもしれない。

しかし、個人的には「優良」として扱ってくれるのは有難いことである。30分の「講習」で済むからだ。講習の中のビデオと言うと、昔は事故の悲惨な映像を見せられたものだ。今回は、飲酒運転にからむ法改正があったせいか、同乗も、酒を勧めるのも、罪になるということを強調した、事故を起こす前の予防に力を入れたものだった。

もう一つの大きな変化は、免許証の IC カード化である。IC カードのおかげで、電車に乗るのも、飛行機に乗るのも、サイフをかざすだけですむようになっているが、免許証をかざす場面というのは想像しにくい。でも暗証番号を登録させられたので、いずれ何かに使うつもりなのだろう。

ただし、便利さは時に不具合も生む。サイフの中に IC カードが何枚も入っていると、干渉を起こして、しかるべきカードの情報をうまく読み込んでくれないことがある。その度にいちいち当該のカードをとり出してかざさないといけなくなり、うっとうしい。

まあ、ほとんど運転しないのだから、免許証をサイフに入れておかなければよいのだが。

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July 31, 2011

2つの Bar

先日、買ったばかりのタブレット機器のスイッチがうまく働かないので、心斎橋の直営店に持ち込んで見てもらった。このメーカーは全国に何箇所かGenius Bar という受け付け窓口を開いていて、専門家がその場で見てくれる。今まで噂には聞いていたが、実際に行ってみるのははじめてだった。

Bar という名前の通り、カウンターの向こうにはその会社の機器ならばどんな相談にも応じるという構えのバーテンダーならぬ genius(天才)が控えている。待っている間も、すぐ隣では、その会社のコンピュータの細かな使い方のチュートリアルをやっていて、それを見ていれば退屈はしなかった。

やがて予約の時間が来たときに、こちらで持ち込んだ機械を見せて、症状を説明すると、あっさり、在庫を調べた上で新品に交換してくれるということだった。30分くらい待った時間も気にならないくらい、満足して帰ったのは言うまでもない。

その bar では、従業員の一人一人が自主性に任せられながら、皆が顧客を心からもてなし、満足してもらおうと思って動いているという感じで、予定調和的に店の雰囲気がよくなっていた。何しろ外国では、贋物を持ちこんでも親切に見てくれたという話だ。

この日は予約の時間まで大分時間があったので、その前に、お昼を兼ねて、すぐ近くの bar にも寄ってみることにした。こちらは零下2度に冷したビールを飲ませるという bar で、テレビにもとりあげられたばかりだし、日曜だったので、店の外で1時間以上待つことになった。

それはもともと覚悟の上だったのだが、待っている間に汗を拭く紙ナプキンを配ってくれたり、水を持ってきてくれたり、ここでも従業員がもてなしの心をもって気を遣ってくれているのがよくわかった。水も小さな紙コップに少しだけなのは、その後のビールの喜びを損わないようにという気配りなのだろうと、好意的に感じてしまうくらいだった。

これだけの列ができるのだから、店内の時間制限をしたら、とも思ったが、中に入ってみて、それは浅はかな考えであったことに思い至った。中はテーブルはあるが椅子はなく、もともと長居をするようにはできていない。そして、店員にうるさく言われなくても、冷たい飲み物と美味しい食べものに満足して、自然と、適当な時間で店を出ていくことになる。もちろん中での従業員の態度もそれに貢献している。せっかくの来店がせかされて出ていくというのではお互いに楽しくなかっただろう。

今日は先週に引き続いてオープンキャンパスの日である。学生スタッフに活躍してもらわなくてはならない。一人一人がおもてなしの心をもって高校生に接してくれることを期待したい。

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June 20, 2011

もう一つの被災

先々週、長崎での「キリスト教学校教育同盟」の総会に出席してきた。久々の「関西圏」からの脱出である。5月に広島出張があったが、これは、この同盟の関西地区支部の総会である。全国を4つに分けているので、「関西地区」は名古屋から広島までを含んでおり、気分としては関西のままだった。

総会では、昨年度の事業報告と決算、新年度の事業計画と予算案などの事務的な議題の他に毎年何らか企画があるが、今年は、「平和教育の現実と課題」というシンポジウムだった。パネリストに広島、沖縄からの代表に地元の長崎の代表が加わり、第2次世界大戦で大きな被害を受けた3地区それぞれでの平和教育のとりくみが報告された。

本学でも毎年8月に、学生を派遣して広島に千羽鶴を届ける運動を続けているが、昨年は別に予算を割り当てて、19名の学生が教職員の引率の下に長崎を訪問した。

東日本大震災が阪神・淡路大震災の年から16年後に起こったということはすぐに頭に浮かんだが、前の震災が、広島・長崎への原爆の投下とそれに先立つ沖縄への米軍の上陸の年から丁度50年後に起こったということは、うかつにも、今回の長崎でのシンポジウムを聞くまで想起していなかった。

世界にただ2つの被爆地では、ずっと平和教育を続けていると言う。「平和」という言葉の重みがおそらく、ずっと違うのだろう。戦争が人間の起こすものである以上、同じ人間の努力によってそれを防がなくてはならない。

神戸と東日本が16年を隔てて共通するのは地震である。これは自然現象であり、人間の努力によって完全に防止することはできない。せいぜい「防災教育」を徹底するくらいが関の山だろうが、危機管理としてはいくらでもやるべきことはある。

一方、広島・長崎と東日本が66年を隔てて共通するのは、ウランの核分裂反応である。原子力発電は、かつて、原子力の「平和利用」と言われた。純度の低い「燃料」は核爆発することもなく、さらに、最近では、CO2の問題もない環境にやさしい発電方式とも言われていた。

それが、いったん事故が起こると、多くの人は、原発に原爆を連想し、被曝と被爆に差を感じない。今回のシンポジウムは地震の起こるずっと前から企画されていたのだが、その意味では、両者の関係をあらためて考えさせることになった。

なお、狼少年のその後については調査中である。何か消息がわかったらまた報告したい。

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May 31, 2011

オオカミ少年の誕生

むかし、あるところにケンという名前の少年がおりました。いや、当人は自分の名前を知らなかったので、彼を発見した村人たちが勝手にそう呼ぶことにしたのです。

ケンは発見されたとき、オオカミと一緒に生活していたと言われています。2本足でなく4つ足で歩いたこと、言葉を話せず、まるでオオカミのような鳴き声をあげたこと、生肉を食べたことなどから、そう推測されたようです。でも、その場を目撃した人はいません。

実際、オオカミがヒトの子どもを育てるとは考えにくいそうです。乳の成分もちがうし、夜行性のオオカミと昼行性のヒトという違いもあるし、ヒトが4つ足で走っても、とてもオオカミに追いつけません。

とにかく、ケンが森の中に、ヒトとの接触なしで長い間暮していたことは間違いないようです。推定、10〜11歳でありながら、ヒトの言葉らしきものは発せず、吠えるだけでした。

言語学者は「臨界期」というものがあると言います。ヒトが言葉を覚えるのは若いうちでないといけなくて、10歳くらいをすぎると、言葉を話せるようになる能力が失なわれ、それ以後に習う「外国語」は、母語と同じように流暢にはならず、アクセントや細かな語法にどうして違いが出てきてしまうようです。

ケンはぎりぎり臨界期に達していなかったのかもしれません。そのうちヒトの言葉を理解するようになり、日常生活は支障なく送れるようになりました。2本足で歩き、服を着て、肉も焼いて食べるようになりました。人々の信頼も増して、羊飼いの仕事もさせてもらえるようになりました。

ケンにとって、言葉というものは、覚えてみるととても面白いものでした。時間を越えて、今目の前にない思い出についても語ることができるし、こうあったらいいなという希望も口にできるということを知りました。

ふと気になったのは、自分を育ててくれたと、村の人が言っているオオカミのことです。ケンはまだオオカミというものを見たことがありません。実際、その村ではオオカミはもう何十年も目撃されていませんでした。ケンにはオオカミにあこがれる気持があったのです。

ある日、話に聞いていたオオカミに似た動物を見かけたケンは、「オオカミを見た」と村の人に言います。でもオオカミなどは絶滅したと信じている村人は取りあってくれません。そんなことが2度、3度続くうちに、ケンはすっかり信用されなくなってしまいました。ケンはオオカミ少年と呼ばれるようになります。(続く)

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April 30, 2011

肩書

人は他人をその肩書で評価しがちであるし、また、自分を肩書が支えていると思っている人も多い。大学に勤めている人間など、「〜大学教授」という肩書をはずして、一個人として外部に通用する人は、著作などで名が売れている、ごく一部の人に限られるだろう。

また、学問の分野による肩書というのもある。言語に関する分野でも、「言語学者」と「国語学者」とはかなり違うと思われている。さらに「日本語学者」となると、どちらとも違う分野の人ととる人もいる。また、最近のように専門分野が多様化してくると、部外者には何をやっているのかわからないような学問の学者を自称する人も出てくる。

先日、田中好子さんが亡くなったとき、テレビで追悼番組がいくつも流されたが、本人へのインタビューで、「元キャンディーズのスーちゃん」から、「元キャンディーズの」がとれたことを喜んでいるような発言があった。実際、若い人の中には「女優・田中好子」としてしか知らない人も多いだろうと思う。

人が進路を変えるのは、それまでの自分とは別のものになりたがるからである。キャンディーズも「普通の女の子に戻りたい」と言って引退した。だから、いつまでも「元キャンディーズ」でありたくはないということだったのかもしれない。そして、田中さんは現に、「元云々」などなくても、一人の女優として立派な仕事をしてきたのは皆が認めるところである。

それでも、テレビでの追悼番組では、盛んにキャンディーズ時代の映像が流れた。その後の30年以上の女優としての映像を圧倒していたと思う。「ファン」を名乗る中年の男性たちも、ほとんどは「キャンディーズ」のファンであり、田中さん個人のファンであっても、それはあくまでも「元キャンディーズのスーちゃん」としてのファンなのだろう。

田中さんは、死を覚悟したとき、天国で東日本大震災の被災者の力になりたいと言っていたという。そして今、天国で喜んでいるのではないかと思う。一度は自らはずした肩書であるが、30 年以上たっても、自分を覚えてくれている人たちがこんなにも多くいたことに。

心から哀悼の意を表したい。

ところで、密かに恐れていることがある。いつの間にか、自分に「元言語学者」という肩書が付いてしまうのではないか、ということだ。そうならないように気をつけなくては。

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March 31, 2011

鵜呑み

長良川の鵜飼は、鵜という鳥を利用した漁法である。鮎などの魚を呑みこもうとする鵜の喉元を紐でしばっておき、通過できない大きさの魚を吐き出させて回収する。考えてみれば、鳥にとって魚にとっても残酷な漁法である。

なぜ、鵜が魚を噛まずに呑み込もうとするのかわからないが、だからこそ、鮎がそのままの形で回収できることになる。もし、鵜が魚をよく噛んで食べる習性をもっていたら、このような漁法は考え出されなかっただろう。

ここから、「鵜呑み」という言葉が生まれる。鵜のように、情報をそのまま呑み込んで信じる人間に対して使われる言葉である。鵜飼との違いは、喉に紐がないので、呑み込んだ情報が吐き出されることなく、そのまま胃にまで達して、本人も信じこんでいることである。

今回の東日本大震災のような大きな出来事が起こり、情報が乱れ飛ぶと、また、政府や大会社の言うことが信用できないという風潮が蔓延すると、怪しげな情報がどんどん出てきて、それを鵜呑みにする人間が増える。

特に、今はインターネットの時代である。情報があっという間に拡がり、鵜呑みにした情報が、また吐き出されたかのように、そのまま伝播されるので、デマが広まるのも速かった。

ただし、インターネットは、誤った情報の迅速な訂正にも役に立っている。電力会社は自分のところのウェブサイトで「公式に」否定できるし、Twitter でも、誤った情報を追いかけるかのように、訂正・否定の tweets が飛び回る。

誤った情報が拡がるのは多くの場合、不安にかられてのことが多い。目に見えない放射線への恐怖は誰にでもある。公表されている以上の隠された情報があるのではないかと疑心暗鬼になってしまうのも無理はないと思う。

とは言え、自分では情報の正しさが判断できない人の無責任な発言は目に余る。特に、世間への影響力の大きい人の発言はもっと慎重であってほしいと思う。こういう人たちは、鵜飼の鵜ではなく鵜匠であるべきなのだから、結果的に不安を煽るようなことはよくない。

一方、正しく情報を判断できる人間の貢献も目立つ。今の放射線の状態、人体への影響など、ボランティアの科学者たちがインターネットで適切な情報を提供している。政府とも電力会社とも無縁のこういう人たちの発する情報は信用してよいと思う。

明日は入学式である。新しく大学生になった人たちにも、鵜呑みにせず、自分の頭で判断することの大切さを教えていきたいと思う。

今回の震災で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。

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