March 31, 2016

卒業

3月は卒業のシーズンである。「卒業」という言葉は、学校の課程を終える場合だけでなく、漫画とかゲームとか芸能人とか、一時夢中になっていたことに、もやは関心をもたなくなる場合にも用いられる。「社会人になる以上、もう、FF は卒業だ」のように。

また、最近では、今まで続けていた仕事に区切りをつける場合にもこの言葉が使われるようになってきた。典型的なのは芸能界で、グループから抜けるときだろう。また、テレビなどで、一つの番組の担当からはずれる場合にも使われる。「脱退」とか「担当終了」というドライな言葉より、前向きな感じがして好まれるのかもしれない。

このような「卒業」に通常涙は伴わない。「卒業」が必ずしも「別れ」を意味しないからだろう。「脱退」と「引退」とでは、かなり印象が違う。

教育課程の「卒業」に関しては、保育園・幼稚園の「卒園」からはじまって、小学校、中学校、高等学校、大学の「卒業」、そして、大学院の「修了」と、数多くの節目がある。人生は連続しているのに、あえて区切りをつけたがるというのは、「終わり」よりも「始まり」を意識したいという希望のあらわれなのかもしれない。

「卒業」を自らのこととしてでなく、卒業していく彼女らを見る立場に立つと、彼女らは去っていき、自らは残る、というより「取り残される」という寂しさのようなものを覚える。いくら、送別のパーティやら打ち上げを賑やかにやっても、そのときはよいが、翌日、ふと我に返ったときの喪失感は大きい。

考えたら、学生には卒業があっても、教育する側には卒業はないのだと、しみじみ思う。

さて、この「学長ブログ」もいよいよ「卒業」の日を迎えた。Diary と言いながら、月刊ブログのようになってしまっていたが、何とか続けることができたのも、時々、思いがけない人から「読んでいますよ」と言われることがあり、しかも、その場合、しばしば好意的な反応を見せてくれる人がいたからだ。

8年間、自らへの課題として続けてきたこの営みに終止符を打つのは、ほっとするとともに、一抹の寂しさを覚えないわけでもないが、任期は任期である。こちらのほうは、さすがにほっとしている。

今まで読んでくださった方にはあらためて御礼を言うとともに、また、いつか、別の形でお目にかかることもあるかもしれないということを期待して、キーボードから指を離すことにしたい。

長い間、ありがとうございました。

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February 29, 2016

オオカミ少年の末路

2014年7月にその後の消息がわかったオオカミ少年ケンですが、疑惑のオオカミ「目撃談」の出版以来、激しいバッシングに合って、一時姿をくらませていました。

しかし、転んでもただでは起きないケンは、もともともっていた文才を生かして、ひそかに再起を狙っていました。10歳を越えてからおぼえたはずの日本語にますます磨きをかけ、ノンフィクションでなく、小説を書くようになったのです。

あれだけ激しかったバッシングも、1年半もたつと、多くの人の記憶にはとどまっておらず、「あのオオカミ少年の書いた」などという宣伝文句は使わずに、あえて、オオカミを連想させない、「猫吉(ねこよし)」というペンネームで、「彼岸花(ひがんばな)」という小説をひそかに出版しました。この小説は、純粋にその文学的価値によって多くの人に好まれ、その年のベストセラーになってしまいました。受賞こそできませんでしたが、某AKG賞候補にもなりました。

何もかもが順調に行って、新しい人生を手に入れたケンでしたが、ある日突然、担当編集者に今の出版社を去ると打ち明けられました。彼女は多くを語りませんでしたが、噂では、出版社の社長とかねてから意見が合わないことがあったようです。

自分をここまで育ててくれた恩を感じる、猫吉ことケンは、その編集者についていき、今後は、彼女が新しく設立する出版社から本を出してもらおうという意向を示しますが、安定した大手の出版社を敵に回したら、どこからも本を出してもらえなくなると、友人たちに説得され、結局今までの出版社に留ることにしました。

こうして、すでに有名人となっていたケンの「独立騒動」はあえなくつぶれてしまい、引き続き、元の出版社で、新しく担当となった編集者と本を出すことになるのですが、騒動の記憶は人々から簡単には消えず、ケンにとっても汚点となってしまいました。ついには、数年前の目撃談の捏造疑惑までほじくり返す人も出てきて、彼の書くものを色眼鏡で見る人もふえてきました。

すっかり人間社会に嫌気をさしたケンは、再び、自分の原点である、あの森に帰ることにしました。ケンが今はどうしているのか、その後を知る人はいません。(終わり)

* 本稿は全くのフィクションであり、実在する人物との類似があったとしてもそれは偶然にすぎません。

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January 31, 2016

端っこ

1月も終わり、もうすぐ節分である。もともとは関西発祥の行事らしいが、節分には、太巻を切らず、毎年特定の方角(恵方)を向いて、一言も発せず、一気に食べる、いわゆる、恵方巻の「丸かぶり」という行事がある。ちなみに今年の恵方は南南東である。

これは、江戸時代の大坂のころにはごく一部の商人の家や花街での行事でしかなかったらしく、一般庶民も巻き込む全国的展開は、比較的最近に、酢や海苔の業界、コンビニなどが始めたことらしい。とは言え、食べ物、それもかなり特異な食べ方を伴う行事というのは面白い。食べ物に関わる行事と言えば、その10日後には、女性からチョコレートを贈るという形に日本で独特にアレンジされた風習が控えている。

丸かぶりの太巻は切らずにそのまま食べるが、普通は太巻は8つぐらいに切って食べる。その場合、必ず2個できる端っこが好きだった。ここは酢飯の量が少なく、相対的に海苔と具が多いので、何か得をしたような気分になる箇所なのである。

食べ物の端っこというのは、本来のあり方とは少し違うために、それ独自の魅力をもっていると思う。煎餅の一部が欠けたところも、醤油などが多目についているようで、少し惹かれるところがある。シフォンケーキを焼いたときに切り取る、蓋というか底というか、端の部分も、味わいがある。

太巻の端っこや欠けた煎餅は、「規格」という観点からは「はずれ」である。しかし、そういうところにこそ、他とは違った魅力的な個性が見出されるということもある。人間を見るときにも、規格に合っているかどうかだけで判断することは避けたい。

端っこと言えば、羊羹の端っこも同様に魅力的だった。包み紙の銀紙の跡がついていて、砂糖の塊があったりする端っこである。この齢になると、余計な砂糖は摂りたくないので、特にその部分を食べたいとは思わないが、子供のころは、危険な誘惑に満ちていた食べ物だった。

羊羹は、特に特定のメーカーの高級な羊羹は、贈答品として用いられることが多い。そして、その場合、羊羹そのものよりも、それに付随した「おまけ」の方が意味をもっていたりする。

そういう羊羹に慣れている人は、もらった羊羹を自分で食べるのだろうか。特に、端っこを食べるのだろうか。どのくらい甘いのか、気になる。

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December 25, 2015

サンタクローズ

クリスマスの日は、大学での行事は何もなく、休校日だ。それぞれが思い思いの形でこの日を過ごせばよいということである。今日は家で、60年前の間違い電話からはじまったという、NORAD のサンタ追跡をちらちらとながめながら仕事をしていたが、配達は無事終了したようだ。今年は全世界に約73億のプレゼントを配ったと発表されている。

先週までの大学のクリスマス行事では、礼拝をはじめとして、一般にクリスマス・ソングとして親しまれている聖歌をよく歌った。3年前に聖歌以外のクリスマス・ソングに2種類あるという見方を紹介したが、今日はその中の、「家族や友達・恋人を想う歌」の一つについて、あらためて書くことにする。

この時期の定番の一つとなっている、松任谷由実の「恋人がサンタクロース」の助詞の使い方にかねてから疑問をもっていた。「恋人はサンタクロース」ではないのか、と。

要するに、恋人のいない人が、「でもサンタが私の恋人だ」と言っている歌かと思っていたのだ。ところが、歌詞をよく読んでみると、「となりのおしゃれなおねえさん」が、幼い(でもサンタはもう信じていない)私に言っている言葉なので、これは、「私には恋人がいるのよ。今夜はその恋人がサンタになってくれるのよ」という歌のようなのである。

ただ、そうすると、その後の「本当はサンタクロース」という部分がよくわからない。この恋人は本物のサンタなのかもしれない。すると、その前の文の解釈も違ってくる。「あなたはサンタはいないと思っているの? 実は、私の恋人がサンタなのよ。ああ見えても本当はサンタなのよ」ということになる。

要するに、「恋人がサンタクロース(になってくれる)」という常識的な解釈でなく、「恋人がサンタクロース(そのものである)」というサンタ実在説に立つ解釈ということになり、両者はかなり違う。

そして、驚くべきことに、歌詞の他の部分を読んでみると、後者の解釈の方が辻褄が合うのである。何しろこのサンタは、雪の街から来て、おねえさんを遠い街につれて行ってしまうのだから。

1980年のこの歌は、つい最近までの日本でのクリスマスのあり方を、サンタの到来を楽しみにしている子供のための日から、恋人どうしが過ごす日という形に大きく変えるきっかけになったと言われている。それは、もちろん「恋人」がサンタ役をしなくてはならないという解釈によるものだ。

しかし、実は、これは、たまたま本物のサンタを恋人としていた「となりのおしゃれなおねえさん」の話でしかないのだとすると、ちょっと前までの多くの若者は、とんでもない勘違いをしてきたことになる。

罪作りな歌である。

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November 30, 2015

声色

先日、空港のラウンジでテレビを見ていたら、面白いことに気付いた。

空港のロビーやラウンジでは、テレビの音を出すと迷惑なので、字幕表示を有効にして音を消しているのが普通である。そこで、字幕でドラマのストーリーを追っていたのだが、複数の人物が登場する場合、人物によって字幕の色を変えていた。例えば、ヒロインは黄色、その夫は青という具合である。

このような色の使い方には意表をつかれた。音が聞こえる人には、その声によって、誰がしゃべっているかは自明だから、いちいち誰のセリフかという印は必要ない。しかし、字だけで場面を理解しようとする人にとっては、誰のセリフかがわかりにくい。話している人の口元が画面に映っているとは限らないし、ほとんど同時に話している場合には、口元が見えても混乱する。まさに声色を字幕の色で視覚化しているのである。

このように、字の色を変えて付加的な情報を伝えるということは、考えてみたら、自分でもやっていた。授業のときのチョークの色遣いである。

通常のテキストは白のチョークで書き、註釈的なものは黄色で、強調するところは赤で、というように書き分けるという趣向である。いや、書き分けようと心掛けているのだが、途中でごちゃごちゃになってしまって、色遣いが逆になってしまうこともあり、学生には迷惑をかけていると思う。

教室で黒板にチョークで板書をするというやり方はかなりの歴史がある。より最近のホワイトボードは、ペンがすぐに乾いて書けなくなったり、色のバリエーションが少なかったりで、今一使いにくい。

また、スライドを用意してスクリーンに映すのは、一見丁寧な授業のようであって、学生の側が受身になってしまいがちだという欠陥もある。スライドの一画面にはかなりの情報量があるので、学生に写させる手間を省いて縮小コピーを配ったりすると、下を向いたまま、メモもとらずに聞いて(寝て)いることもある。

チョークは、書く側から言うと、手が汚れたりするという問題はあるが、学生が書き写すのにほどよいスピードで書くことになり、学生も自然前を向くことになるので、一体感が生じるという、教師の側からの一方的な思い入れもある。

ところで、最近、ボランティアグループの学生から、現行のチョークの色も、視覚障害のある人にとっては見えにくく、それを改良したチョークが出ているということを知らされた。同じメーカーから出ていて、価格もそれほど違わないという。単純に色がついていれば情報量がふえるというわけではないということなのだ。このようなユニバーサル・デザインの製品は積極的に採用すべきだろう。

それにしても、板書のたびに思うのは、最近漢字が書けなくなったということである。

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October 31, 2015

仮装と化粧

今日、10月31日はハロウィーン (Hallowe'en) の日である。これはもともとアイルランドのケルト人の秋の収穫のお祭であったが、カトリックや聖公会で「諸聖人の日」としている11月1日の前の日の晩にあたるということから、all-hallow evening がちぢまってこのように呼ばれることになったという。しかし、キリスト教本来の行事として10月31日を祝うということはあまりないらしい。

現在、アイルランド以上にこの祭が盛んなのはアメリカで、10月はカボチャの収穫の時期でもあるので、これで作る Jack-o'-lantern が有名である。提灯ジャックということか。

大学では、10月31日は公式の宗教行事としては、何も特別なことはしないが、直前の木曜日の昼休みに、主に外国人の先生たちによる、様々なコスチュームのパーティが、恒例行事としておこなわれている。

今年も「ダースベイダー」に扮した先生がいたので、写真をとろうとして Say cheese! とうっかり言ってしまったのだが、あとで考えたら、口元は確認できないのであった。

こういうコスチューム(仮装)をすると、外界と自分とが隔絶されたように思われ、日頃とはちがった、いわば、別人格になったような気になるのだろう。ふるまいも大胆になったりする。

別人格と言えば、外国語を話すときにも同じような感覚になることがある。日本語の話者が英語を話すとき、例えば、身振り手振りが妙に大袈裟になったり、Yes か No かをまず最初に述べたりするような変化があることがある。母語でない言語で話すということは一種の仮装なのだろう。

ところで、「仮装」と音の似た語に「化粧」がある。どちらも、本来の自分とは違ったものになるという点では、意味も似ている。はたして、化粧をしていると別の人格になったような気になるのだろうか。もちろん、薄化粧から厚化粧まで、様々な段階に応じて、別人格の度合いも異なるのだろうが。

化粧をおとした状態を「素顔」と言う。素顔は本来の人格をあらわすはずだが、人前に出るときには化粧をするのが普通の人の場合、本来の人格はどちらなのか曖昧になってくる。

同じように、仮装を脱ぐと、裸の人間になってしまうが、通常、人は裸で他人に会ったりしない。普段着でも、一種の仮装と言えるかもしれない。

ひところ「ありのままに」ということがはやったが、こうして考えてみると、人は「ありのまま」で他人と接することの方が稀である。何らかの仮装ないし化粧をした状態が普通であるということを前提として人と接するしかないのではないかと思う。

素顔の方が怖いという人もいるかもしれないのである。

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September 30, 2015

曖昧性

「曖昧」という言葉はそれ自体が曖昧で、単に意味がはっきりとしないという場合と、意味が2通以上あるという場合がある。言語学では「曖昧性 (ambiguity)」は通常後者の意味に用い、前者には「漠然性 (vagueness)」という言い方をすることがある。

「曖昧性」は「多義性 (polysemy)」ということもあり、典型的には、そもそも単語に2通り以上の意味がある場合の語彙的曖昧性がある。「おばちゃん」「おじちゃん」などは親戚関係にある人間を指す場合と、単に、一定の範囲の年齢の人間を指す場合がある。これらを含む表現、例えば「電車の中で突然おばちゃんから飴をもらった」も同様に2通り以上の意味をもつことになる。

一方、構造的曖昧性というのは、単語そのものには多義性はないのに、文の構造に2通り以上の可能性がある場合である。例えば、「昨日福山と千原が結婚したとの発表があった」は、福山と千原とが婚姻関係を結んだという意味と、福山と千原のそれぞれが、別々の人と結婚したという意味がある。そして、実在の人物の場合には、解釈は一つに定まる。

さて、次のような文はどのように解釈されるだろうか。

A、B については、C や D への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。

これのもとの文については、多くの人が、A、B ともに、C や D をしなくてはいけない、特に、C を求められていると解釈し、大変なことになったと考えた。

これは、実際に今年の6月に文部科学省が国立大学法人に対して発した文書の一部であり、A〜D を復元すると次のようになる。

教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、…組織の廃止や他分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。

これではどうしても、どちらの学部・大学院も「組織の廃止」も含めた改編に努めないといけないと解釈してしまうだろう。国立大学には人文系学部はいらない、という危惧を多くの人がもったのも無理はない。

ところが、9月になって、実際は、「通知を作った役人の文章力が足りなかった」という文科省幹部の「釈明」で、「組織の廃止」は前者(の一部)のみに関わるということが明らかになった。

「A、B」と「C や D」という並列の表現を並べ、C は A のみに、D は B のみに関わると解釈するのは相当の読解力を必要とする。「文章力」のある人ならばせめて「それぞれ」を「組織の廃止」の前に補うだろう。

芸能人の結婚問題ならば背景の知識により誤解は生じないが、背景のわからない公文書は努めて曖昧性のない形で発信してほしい。

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August 31, 2015

We

日本語では、しばしば主語を表現しないで文を作る。これを盾にとって、「日本語に主語はない」という見当違いな主張をする人がときどきいるが、表現しないことと存在しないこととは違う。日本語にも主語はあるのだが、表現しなくてもよい場合が多いということにすぎない。

一方、英語では基本的に主語は必ず言わなくてはならない。例えば、「雨が降る」は rain という一つの動詞で言ってしまえるのだが、動詞だけでは文にならないので、意味のない it を主語の位置に置かなくてはならない。

こういう違いは、同じ内容の日本話と英語の文書を作る場合に問題になる。主語の表現されていない日本語の文を英語でどうあらわすか。受身文にして不自然な文にするよりは、日本語で表現されていない主語を補う方が望ましい。日本語で表現されていないものは一人称であることが多いから、たいてい、I か we を補うことになる。

その場合、今度は、単数の I にするか複数の we にするかという問題が生じる。もとの日本語の文では、単複の区別が曖昧なことが多いからである。はっきり話し手個人の話としているのか、少し一般化して、話し手を含む複数の人間を話題にしているのかが微妙なことが多い。

英語の一人称の問題は学術論文の際にも問題となる。一昔前は、筆者が個人であっても、I は避けるべきだ、というような教えがあったそうだが、最近では、書き手の責任をはっきりさせるために、積極的に I を使うべきだということになっている。

それでも、単著論文でも we を使うことがある。一つは、新聞の社説などの、いわゆる “editorial we” であり、論文の執筆者は一人だが、「実験などに関わったみんな」というつもりで、we have found … のように書くことがある。もう一つは、「読者と私」という意味での we。例えば、Let us discuss this finding … などというのは、読者も一緒に考えてみましょう、という感じだろうか。

We に関連して、半月ほど前のさる談話の日英それぞれの版を読み比べてみて、日本語版に意外に主語なしの文が少なく「私たち」という言い方が多いことに気づいた。英語版ではもちろん we が多用されている。主語を明確に述べるのが原則の英語版と統一するために日本語版も主語を明確にせざるを得なかったのかもしれない。

しかし、どのような意味での「私たち」であり we であるのかはわからない。英語版にごくわずか登場する I に相当する日本語は見つけられなかった。

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July 31, 2015

カメは幸せか

イソップの寓話に「ウサギとカメ」というものがある。あらためて言う必要もないと思うが、足の速いウサギと遅いカメが競走をして、意外なことにカメが勝ち、その原因は、ウサギの側の油断であったという教訓である。

ウサギは、自分の足の速いのに慢心し、「どうせカメなどは後からいつでも追い越せる」と思い、昼寝をしてしまう。その間にカメはウサギを追い越し、ウサギが目を覚ましたときにはすでにゴールに到達していたという話である。

もともと、こういう、いかにもお説教臭い話というのはあまり好きではないという気性に加え、自分が卯年のせいか、かねてから、この話には腑に落ちない思いがあった。

ウサギは、走るときには全力で走り、しかるべきときには休憩をとって、体に無駄に負荷をかけないようにしていた。たまたま寝過ごしたという、ただ一回の失敗をもって、全人生を否定されるような扱いはいかがなものか、という疑問である。

同じイソップのアリとキリギリスの話もそうだが、この人は、コツコツと、ひたすら真面目に働く動物が好きらしい。休憩もとらずに休みなしに走る動物だとか、歌も楽器も奏でず、ただ、食料の調達のみに従事する動物だとかには暖い目を向けるが、人生にメリハリをつけ、楽しみを見出だす動物には冷たい。

確かに、国家とか共同体全体とかを考えた場合には、カメやアリのような人々が多くいた方が都合がよいだろう。しかし、そのような共同体の中身は、はたして、幸せな人々の集う集団と言えるだろうか。

大学という共同体も、最近は外からの有形無形の圧力が感じられる。社会の役に立つ人材を養成せよ、という、無言あるいはあからさまな要請である。

もちろん、大学に社会に対する責任があることは言うまでもない。しかし、社会に役立つ人間というのは、社会を豊かにする人間でなくてはならないだろう。そのような人間は、まず自分が幸せを感じていなくてはならないのではないだろうか。自分を犠牲にしている人たちばかりで作る社会というのは、SF小説の未来世界のようで、気色悪い。

そう考えると、カメに負けたウサギに慰めの言葉をかけたくなる。「ウサギさん、あなたの失敗は、ほんの少し昼寝が長すぎたことだけなんですよ。この次は、しっかり目覚まし時計をセットして、カメさんにわずかの差で勝つように走りましょう」と。

「ウサギとカメ」の続編というのもあるそうだが、ここは素直に再試合を提案したい。そして、もちろん、ウサギを応援するのだ。

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June 30, 2015

輸入品?

かつては、日本の学問は、「輸入学問」だと批判されることがあった。国文学とか日本史のように対象が日本に限定されているものはさておき、例えば、象の研究においても、象の食性や行動などの生態を自らの目で観察するのでなく、象が諸外国でどのように研究されてきたのかを日本語に翻訳して紹介するだけで「論文」としている、というような批判である。

これは、おそらく、研究対象に身近にいる人間の方が深い洞察ができ、そうでない日本人にできることには限りがある、というような諦めが先に立ってのことなのかもしれない。

しかし、学問の分野によっては、普遍性が当然とされることがある。物理学では、例えば、イギリス人のニュートンでなければ、リンゴが落ちることと月が落ちないことの間の共通性に思い至らなかったということはない。日本人が柿の落ちるのを見て、同じ洞察に至ったかもしれないのである。

より国民性に密接に絡んでいると考えられる文学においても、人間の心理の一面は、文化的な背景による特殊性もあるものの、つまるところ、人間の心理の多くの側面には、共通のものがあるからこそ、翻訳文学が読まれるのだろう。

音楽においても同じである。日本人には、雅楽とか民謡しか心地よい音楽として聞くことができない、ということはない。むしろ、ヨーロッパを発祥の地とする音楽を、ヨーロッパ人よりも適切に演奏できる日本人も多くいる。本学のチャペルから生まれた、鈴木雅明氏の率いるバッハ・コレギウム・ジャパンも、今や、「日本人による」という限定が不必要な、普遍的な演奏を世界に送り出してきている。

話を学問に戻すと、自分の関わっている理論言語学という分野でも、生成文法という、そもそもは、アメリカ人の言語学者が始めた理論に基づいて、いろいろな言語が分析されている。この理論による日本語の分析も、生成文法誕生の直後から数多く発表されてきている。これを「所詮英文法の焼き直し」だとか「日本語に西欧的な意味での文法はない」だとか言って批判する人が、かつては、いたように思う。これなどは、誕生地の個別性と成果の普遍性を区別できない無知からくる妄言だろう。

本学のようなキリスト教主義に基づく学校の教育も、もちろん、人類に普遍的な意義を感じるからこそなされているのである。決して、学生に西欧人のようになってほしいと思っているわけではなく、むしろ、イギリス人である創立者が感じた、松という日本的なものを生かした上での教育である。

生まれがイギリスであれ、アメリカであれ、普遍的な価値をもつものは素直に受け入れたい。原案が外国であろうと、翻訳であろうと、よいものはよいのである。

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