October 31, 2009

同種と異種

散歩しているときの犬は、他の犬が近くに来ると、寄っていって臭いを嗅いだりする。気を許していると、どちらかが吠えたりするので、リードはしっかりと引っぱっておく必要がある。

犬はなぜ他の犬を見ると寄っていくのだろうか。自分と同じ種類の動物が来たので、一種の親近感からかと思っていたが、よく考えてみると、うちの犬が自分のことを犬だと意識しているという確証はない。現に、鏡に向かわせてみても、何の反応もない。鏡に写っているのが自分であるということはおろか、自分と同じ犬だということも意識に上らないようなのだ。

もしかしたら、うちの犬は自分のことを犬ではないと思っているのかもしれない。それでも公園で他の犬を見ると寄っていくのは、単に「犬好き」なのだからと考えることができる。人間でも「犬好き」な人が犬を見ると寄っていくのと同じである。

すると、自分のことを犬だと思っていない犬が「犬好き」なのは、自分と違ったものを好むからだということになる。必ずしも自分と同種のものを好むからではないのである。

人間の場合、自分と似たものを好むか自分と違ったものを好むかはいちがいに言えない。人間嫌いの犬好きという人もいるだろう。違っているからこそ引き合うのだとも言える。

そこで磁石のことを思い出す。磁石にはN極とS極があり、異なった極どうしが引き合い、同じ極は反発し合う。また、棒磁石を真ん中で切ってもN極だけの磁石とS 極だけの磁石ができるわけではなく、切り口がそれぞれ反対側と逆の極になった2つの棒磁石ができる。N極とS極は単独では存在できないということになっている。

しかし、大学時代の先生に、磁気単極子という、片一方だけの磁石を探し求めている先生がいた。理論的には、電気と磁気の対称性から、電気的にマイナスな電子やプラスの陽子が存在するのと同じようにあってもおかしくないらしい。

でも、仮に磁気単極子が見つかったとしても、ずいぶんと寂しい存在ではないかと思う。引き合う相手があってこその磁石ではないのか。

さて、うちの犬は引き合う相手を求めて他の犬に近寄るのだろうか、それとも、仲間がいると思って近寄っているのだろうか。どちらが正しいのかは、犬に訊くことができれば直ちに解決するのだが、答えてはくれない。

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September 29, 2009

その他のゴミ

長時間の乗り物では、ペットボトルの飲み物が欠かせないが、空ボトルを手にしてホームに降りると、ゴミ箱をさがす。旅行中はボトルに蓋をしたまま捨ててしまうが、本当は、リサイクルのためには、ペットボトルの本体と蓋と回りのビニールは分ける必要がある。それぞれに再生の用途が違うのだろう。市の月2回のペットボトル回収日には、蓋とビニールは一般ゴミ扱いであり、そもそもリサイクルしていない。

しかし、特に蓋だけを集めようという活動がある。本学でも今年から、学生と教職員のボランティア活動で、蓋の回収場所を設けている。これを800個業者に送ると20円で買いとってもらえて、ポリオのワクチン1人分が賄えるそうだ。もちろん蓋が直接ワクチンの原料になるわけではないが、本体とは別の役立て方があるらしい。

さて、駅のホームで蓋とビニールを本体とは別に捨てるとする。これらは、家では一般ゴミだが、ホームに、3つか4つ並んでいる箱のどれに入れたらよいか。箱を順に見ていくと、いきなり「その他のゴミ」という箱が目に入ることがある。これが一番最初に目にした箱の場合、蓋とビニールをその箱に投げ入れてよいかわからない。3番目か4番目に「ペットボトルの蓋」とか、あるいは「ペットボトル関連」とかいう箱が出てきたらどうするのだ。今まで、そういう箱に出会ったことはないが、なにしろ旅行中の身である。どのような分別方針のところに来ているかわからない。例えば、「石油からできたもの」というような箱で「紙」と別にビニールを捨てさせているところならばあってもおかしくない。結局最後まで見て、またはじめの箱に戻ってくることになる。

ことばの使い方としては、「その他」の「そ」は、それまでに出てきたものを指す。だから、いろいろと順番に並べていって、最後に「その他」とするのである。ゴミ箱を配置した人には、3つか4つの箱を見ていく順番に一定のイメージがあったのかもしれないが、駅のホームのように、人がどちら向きに歩くかわからないところではそのような前提は崩れる。ここはやはり、「燃やすもの」のように、それ自体で意味をなすような表現にすべきだろう。

「その他」というのは「そ」に依存してしか自分を決められない身分である。大学も「その他の大学」にならないように、それ自体の意味をもっていかなくてはいけない、と強引におとしておく。

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August 26, 2009

雑草

毎朝犬の散歩をしている川沿いの公園は、人のよく歩くところはまだしも、川面に沿った遊歩道や中洲では草が生え放題で、夏になると川に沿って歩くのも難しくなってくる。

そこで、半年に1回くらいだろうか、草刈りがおこなわれる。草刈りは徹底していて、よく「ペンペン草も生えない」と言うが、きのうまでの雑草による緑の世界が、翌日には、土しか見えない状態になるのを目にすることになる。

どのようにしたらこのような土だけの状態にすることが可能なのかはわからないが、明らかに手で一本一本草を抜くというような悠長な作業ではないことは確かだ。電動の鎌で徹底的に刈るのだろうか。まさか、除草剤のような化学的な手段までは併用していないと思うが。

草刈りの翌日は、雑草がなくなってさっぱりした気分とともに、一方では「そこまでやるか」という疑念も生じて、一抹の寂しさを感じる。

昔読んだ話に、主人と召使いの次のようなやりとりがある。泥で汚れた靴を磨いておかなかった召使いに主人がその理由を聞くと、「外は雨なのでどうせまた汚れるから」と答える。そこで主人はお返しに、夕食をやらないことにした。「どうせまたお腹がすくのだから」という理由である。

これをそのまま応用すると、草は刈ってもどうせまた伸びる。だから刈っても無駄だという考え方もできるかもしれない。

しかし、これはあくまでも蓄積ということを無視した議論である。靴磨きでは、汚れをその都度落しておかないと定着して取りかえしのつかないことになってしまう。食事も、一食抜いたらその分余計にお腹がすくから定期的に食べた方がよいのである。一見同じことの繰り返しのように見えて、意味のあることは多い。

草刈りも、半年分の成長の後を刈っておかないと次の半年後には大変なことになる。そのように理解しても、荒涼とした景色には心が痛む。雑草にも生きる権利はあるのではないか、などとちょっと大袈裟に考えてしまう。

もっとも、さすが雑草である。翌日には小さな草が生えはじめ、1週間後にはかなり伸びてくる。2週間もすれば、前より多少すっきりした形だが緑が復活する。こうして、ほっとするとともに、また歩きにくさを嘆くことになるのである。

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July 18, 2009

学長室の椅子

最近学長室の椅子が新しくなった。前の椅子は、この部屋ができたときからあるものなのか、立派な皮革張りの椅子なのだが、スプリングがへたっており、座ると際限なく沈み込んでしまう。さらに、高さ調節のネジがさびついていて、コンピュータのディスプレイとの適切な高さの確保が不可能になっていた。ディスプレイを見上げるような形になり、首が痛くなってくるので、座面の上にマットなどを敷いてみたが、どうも落ちつかなかった。

どちらかと言うと、「形から入る」方なので、仕事をする上での家具・文具などは重要だと考えている。安いものでもいいのだが、機能的なものを好む。最近の椅子が5本足なのは、体を傾けても椅子ごと倒れたりしないように安定性を増しているからだろう。今までの椅子はもちろん4本足だった。椅子ごと倒れてしまったことはないが。

新しい椅子は、高さはもちろん、座面の前後、背もたれの傾きの限度、傾けるときの反発の堅さ、肘置きの高さなど、合わせて10箇所ほども調節することができる。一通りやってみて、適切な位置を選ぶだけでも小一時間かかってしまった。

その結果は、多少の不満は残るものの、すこぶる快適である。これで仕事ができなくてはバチが当たるというものだろう。長時間座っていても疲れを感じない。もう、仕事の遅いことを椅子のせいにはできない。

あらためて言うまでもないが、「椅子」は英語では chair と言う。そして、今日の英語では、chair は、かつての chairman、少し前の chairperson を指すこともある。会長とか司会者などのことである。単語の一部に man を含む、男性優位の表現から中性化し、ついには人間の部分を抹消してしまった。椅子に座る人を椅子そのもので、つまり単に機能として呼ぶようになったのである。

日本語の「椅子」も、英語の chair と同じように、機能、すなわち一定の地位を指して使われることがある。こちらの意味での「学長の椅子」は、椅子が新しくなっても、依然として、長時間座っていると疲れる。

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June 02, 2009

這っても黒豆

新型インフルエンザの兵庫県などでの発生による休校、その後の警戒体制もようやくとれ、大学も通常の体制に戻った。もちろん、常日頃から手洗い・うがいの習慣をつけておく必要があることは今後も変わりはなく、そのような日常の注意事項をあらためて確認することになったのは不幸中の幸いと言うべきか。

今回痛感したのは、距離の大きさに比例した情報の不正確さの度合である。関西地域に来ることに不安を感じている人が他県にいることが意外だった。観光地が風評被害に合っていると報じられているが、身近かなところでも、結婚式とか学会への出席を見合わせるという人が現実にいた。それぞれの事情があってのことだと頭で理解はしても、心の片隅に寂しさが残った。

インフルエンザは飛沫感染なので、大気中にウィルスがうようよといる状況ではないし、地域全体が汚染されて立ち入り禁止になっているわけではない。最近は関西ではほとんど新しい感染者が出ておらず、ほぼ治まったと見られている。なのに、つい最近まで、まるで関西地域が危険地域であるかのように扱っている他県の大学もあった。

一つには新型インフルエンザに対する国の指針が、従来の鳥を想定した強毒性対応のものから、今回の豚の弱毒性のものに対応したものになかなか改まらなかったということがあるだろう。そのため、一部の人にとっては「弱毒性でも新型」なのである。

このような頑固さを端的に言いあらわしたのが表題の諺だが、「ても」にこれだけの意味を込めるのは神事である。しかし、諺としてはよくできているが、人や組織がこのように硬直してしまうのは困る。

危機管理ということがとかく言われる。今回は弱毒性であったが、兵庫・大阪・京都ではほとんどの大学が休校にした。結果的には、これは、われわれにとっては、秋に来るかもしれない第2波に備えてのシミュレーションをおこなう絶好の機会となった。幸い1週間程度の休校ならば、休みに大きく食いこまずとも埋め合わせることができることもわかった。

こうして、われわれには貴重な意味ある経験だったわけだが、過剰に防衛しようとするのも、危機管理が逆の方向にうまく行っていないということではないだろうか。本当に恐いのは、ウィルスよりも、情報の欠如からくる謂れなき不安である。

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May 01, 2009

ハッピーバースデー

いわゆる豚インフルエンザだが、豚には罪はないので、正確にはインフルエンザA型 (H1N1) と呼ぶようになったそうだ。これに感染した人が世界中にあらわれて、日本にもいつ来るかわらないという情勢になってきた。特にちょうどゴールデンウィークにかかるので、メキシコに限らず、感染者のいる海外に旅行してウィルスをもち帰る人がいることが恐れられている。

大学は、今のところ平常通りに、休日以外は授業がおこなわれているが、「新型インフルエンザ」に認定されたので、対策をあらかじめ立てておいて緊急の場合に備えることになった。特に、都道府県単位で、状況によっては、人の集まる施設である学校を休校にすることが要請されるので大変である。

そうならないことを祈るが、豚にインフルエンザを起こすウィルスが変異してできた今回のインフルエンザは、鳥のインフルエンザほど致死性が強くなさそうなのが不幸中の幸いと言えるだろうか。だが、ウィルスが変異することもあるので気は抜けない。

このような世界的な病気を「パンデミック (pandemic)」と言うが、「pan」は「すべての」「demi」は「人々」という意味なので、まさしくすべての人に感染する恐れがあることになる。

感染を防ぐためには、外出から帰ったら、何かを口にする前にうがいと手洗いをしっかりすることが大事だが、どちらもおざなりにしたのでは意味がない。最低30秒続ける必要があるという。この30秒というのは結構長い。時計がないときは「ハッピーバースデー」の歌を2回歌うとよいそうだ。実際測ってみたら、1回で15秒だった。うがいしながら歌うのはむずかしいから頭の中だけで歌えばよいのだろう。うがいはすでに入ってしまったウィルスを洗い流すためだが、忘れがちなのは、そもそもウィルスを口の中に入れないための手洗いである。こちらもハッピーバースデーを歌いながら洗うことになる。

ところで、あの歌には、「Happy Birthday dear 〜」という部分があり、祝われる人の名前を入れる。2回歌うということは同じ人を2回祝えばよいのだろうか、それとも別々の人の方がよいのだろうか? そもそも誰を祝ったらよいのだろうか? 結構悩む。

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April 12, 2009

ラテスカービベ

関西でのお花見の季節も終わりにかかり、葉桜を楽しむ時期になった。

家の近くの川沿いの公園が桜の名所で賑わっているが、新聞によると、先週の日曜は家族連れが多かったらしい。そういえば、今年は会社の新入社員による徹夜の場所取りが少なかったような気がする。景気とお花見には関連があるのだろうか。

毎年この季節には屋台が多く店を出すが、満開を過ぎるとともに、ぼちぼち撤退の用意を始めている。日曜の朝の犬の散歩のときに荷作りをしているのを見かけたので、土曜日の営業を最後に日曜日中に北に移動してしまう店もあるらしい。

屋台も、ちょっと前は中東風の人がシシカバブを焼いていたりしたのを見たことがあつたが、今年は伝統的なものばかりだった。甘い甘い「ベビーカステラ」などは3軒くらいあり、その看板がテントの前と左右に書いてあるのだが、向かって右側は「ベビーカステラ」で、左側は「ラテスカービベ」となっている。

これは文字の右側が店の前面になるので、前から後ろへ向かって読んでくれということなのだろう。同じようなのに「めあごんり」「きやちもズーチ」などがあって、名前だけ見ていると、まるで異国の市場にまぎれこんだような気になる。もっとも異国でかな書きの看板を見るはずはないが。

中には、「つか串」「焼玉かい」などもあって、日本語として違和感がないので、さらっと読んでしまって、その後で「ん?」となる。

日本語は縦にも横にも書けるという点で世界に類を見ない表記体系をもつことで知られている。しかも、横書きは昔は右から左にも書いていた。屋名池誠氏の綿密な調査によると、看板とか掛軸、新聞の見出しのように、1行1文字の縦書きと解釈できる場合もあるが、2行以上にわたって右から左へ文字を並べた例もあるようで、縦書きの伝統の中に横書きが導入されたときにはいろいろと混乱もあったらしい。それが延々と屋台の看板に引き継がれているのだろうか。

本学には残念ながら桜の木があまりない。そのため学内でお花見をしているという話もあまり聞かないし、当然、屋台も来ない。しかし、桜の満開の時期は新学期が始まり、学生が帰ってくるころなので、キャンパスが別の形で華やかになってくれる。

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March 13, 2009

卒業

大学の年度もいよいよ終わりである。先に「終わりのはじまり」と書いたが、それからあっという間に「終わりの終わり」になってしまった。

学生が大学生活を終えることを「卒業」と表現する。辞書を調べてみても、なぜ「卒」の字なのかはっきりしない。もともとは「衣」(を着た人間)を10集めて文字通り「十把一絡げ」とした下級兵(一兵卒)というような意味だったらしい。ある辞書では、そのようにまとめることから「締めくくり」の意味がでてきたという。

いつからか、芸能界で、グループのメンバーからはずれることや、司会者などが番組から降板することを「卒業する」と言うようになった。これも学校に関係なく、終えるということだろうが、単に「辞める」というのとは意味あいが違う気がする。

「卒業する」は英語では graduate だが、「卒業式」はアメリカでは commencement と言う。あちこちの式辞で言われているだろうが、commence というのは「はじめる」という意味である。卒業するということは、終えることではなく、次の段階をはじめることなのだ。

すると、モーニング娘。のメンバーからはずれることも、お天気キャスターが交代することも、当人にとっては次の段階へのステップアップということになるので、「卒業する」という言い方をするようになったのだろう。

人が去るときに、実は寂しいのは去る人ではなく、去られる側、送り出す側である。去る人にとっては「卒業」であり、期待にあふれる次のステップがあり、新しい経験が待っている。それがちょっと不安ではあってもワクワクするような気分がある。一方、送る側にとっては、明日からも同じ生活であり、単調な繰り返しである。しかも、惜しんで送り出した人抜きである。

そう考えると、「卒業式」を盛大にとりおこなうという行為は、送る側のためなのかもしれない。明日から繰りかえされる日常をいっとき忘れて、非日常的な空間を演出する試みなのかもしれないと思えてきた。

もっとも、大学にとって幸いなのは、卒業式の後10日もすれば入学式があることである。こうして、大学も中身を一部入れ替え、次のステップに移ることができる。

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February 12, 2009

指先、指の先、夢の先

「先」という言葉にこだわっている。「先」には大雑把に言って、《先端部分》という意味と《延長した方向》という意味がある。「指の先」にもこの2つの意味があって、《指の爪の生えている付近》を意味する場合と、《指で差し示している彼方》を意味する場合がある。おもしろいことに、「指先」には前者の意味しかない。

以前あるところで、犬にはこの2つの意味のうち後者がわからないようだ、ということを書いたことがある。我が家の犬も、何かを指で示すと、その指そのもの、あるいは指がさわっているものを見ることはあっても、指の差す方向を延長した先にあるものは見てくれない。つまり、「指の先」にあるものを見てほしいのに「指先」しか見てくれないのだ。

日本語に「こ・そ・あ」の体系があることはよく知られているが、指が触れているものは「こ」の世界のものである。指の差す方向にあるものは「あ」の世界である。どうやら犬は「こ」の世界にしか生きていないらしい。指差しで「ここ」を示すことはできるが、「あそこ」を示すことはできない。

「あ」の世界は、自分の「こ」の世界からも相手の「そ」の世界からも中立な世界である。自分と相手が同じ方向を向いて見る未来である。犬はあくまでも現在を生き、人間は、かりに現在がだめでも未来に期待して生きることができる。

指の他に「先」が使える体の部分はないかと考えてみると、「目先」「鼻先」「口先」「手先」などが見つかった。しかし、なぜかいずれもあまりいい意味で使われることはない。「目先の利益に目を奪われ、鼻先で笑われる口先だけの男が手先に使われる」と続けると、まるで人生の落伍者を極めたかのようである。

もう少し元気の出る「先」はないものかと思ったら、昔「夢先案内人」という歌があったことを思い出した。検索してみても歌詞の中にはこの語が出てこないので、タイトルの中だけの言葉だが、「夢先」という語は辞書に載っていない。新造語なのだろうが、この「先」はどういう意味だろうか。「夢」に先端部分があるとも思えないので、夢の発展していく方向だろうか。

まさか、夢の先は醒めた後の現実、というのではないでしょうね。

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January 21, 2009

終わりのはじまり

今の時期、あちこちで学生が「終わった、終わった」とほっとしている。先週後半に、卒業論文と修士論文の締切があり、皆、直前まであたふたとしていたのである。ほっとしている彼女らを見ていると、こちらまで安心する。

日本の学校の年度は4月からはじまるので、年明け早々というのは、年度の終盤に向けてのまさにラストスパートの時期にあたる。昨年の12月をもって一件落着というわけにもいかないので、ゼミの学生と忘年会をすることもなく、新年会もそこそこに、論文の「打ち上げ」がそれに代わる行事となる。

こうして見ると、1月というのは、大学にとって、さまざまなことがあった1年が終わっていく時期なのだ。そう思うと、新しさに伴う清々しさよりも、終末に尽きものの一抹の寂しさを感じないでもない。

大学は多くの学生にとっては人生での通過点にすぎない。通過点で待ち受けるわれわれから見ると、3月になって馴染んだ人たちが去って行き、4月になれば新しい人たちがやって来る。去って行く人たちに対しては惜別の情を、やって来る人たちに対しては期待の念をもちつつこの時期を過ごすことになる。

個人的にもいろいろ終わった。2、3の原稿、特に、10か月遅れていた原稿がようやく仕上がったのが嬉しい。多人数の分担なのでそれだけ迷惑もかけてしまったと思うが、ようやく肩の荷が降りた。原稿というのも不思議なもので、仕上がらないうちは、頭痛の種でしかないものが、終ってしまうと、何だか寂しい。かと言って、もう一度同じことをやりたいとは思わないが。

アメリカでも、1つが終わり、1つがはじまった。 “Yes we can”で有名になった Obama 大統領の演説だが、今回の就任演説では、“we can”は、見落しがなければ1箇所だけで、しかも、“All this we can do. And all this we will do.”と後に“we will”が続いている。可能性からいよいよ実行へという流れだ。

振り返ってわが身を顧みると、1年目の終わりに近づいている。何が have done として言えるか、考えるとはなはだ心もとないが、2年目に向けて、歩み出さざるを得ない。

ん? 何だか、年度末の挨拶のようになってしまったが、今年度はまだ続く。

今年もよろしく。

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