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December 31, 2010

自称

昨日の続き。

国内の出張だと、普段あまり見ないテレビをだらだらと見てしまったりすることもあるが、言葉のわからない外国の場合は、テレビを見ても、英語の映画でもやっていない限りちんぷんかんぷんなので、本でも読もうかということになる。

今回は、運んだ4冊のうち2冊しか読めなかったが、どちらも「脳」に関わる本だった。「脳」は言うまでもなく言語にとって一番関係が深い器官なので、それがタイトルにある本は、面白そうだと思うと、読む時間があるかを考えずに買ってしまう。今回の2冊も半年以上も前に買ってあったものだが、ようやく順番が回ってきた。

1冊は、単行本が文庫されたものだが、巻末に横文字の参考文献がちゃんとついているという本格的なもの。といっても元々情報誌のコラムにわかりやすい解説をつけたものなので、素人向けにいろいろと意外なことが書いてあって勉強になった。

もう1冊は、脳研究者による、最近何かと濫用される「脳科学」ブームの批判。かねてから疑問に思っていることをはっきりと書いてくれているので痛快な気分だった。後者で、現場の脳の研究者は自分のことを「脳科学者」などとは言わない、という指摘にはっとした。

物理学科の学生だったころ、先生たちは自分たちを「物理学者」でなく「物理屋」と言っていたことを思い出した。大学院のはじめの専門は情報科学だったが、先生たちは「計算機屋」という言い方をしていた。(因みに、「コンピュータ」というのは一般人の使う用語だという意識が当時の専門家にはあり、「計算機」というのが由緒正しい言い方だった。)

その後、言語学を勉強するようになったが、日本の言語学者が自分のことを「言語屋」と言っているというような話は聞いたことがない。「言語学徒」という古めかしい用語を使っている文章を読んだことはあるが、勿体ぶった感じがする。かと言って「言語学者」とずばり言うのも気恥しく、「言語学をやっている」というような言い方になってしまうのではないだろうか。「〜学者」と自分から言う人が信用できないということではないが、ちょっと用心した方がよいかもしれない、という気はする。

でも、子どものころは「科学者」にあこがれていた。子どものころの自分にとって典型的な「科学者」は白衣を着たお茶の水博士だった。言語学も科学だから「言語学者」も「科学者」なのだろうが、白衣を着ることはない。そして、鉄腕アトムを相手にすることもないが、Atoms of Language (『言語のレシピ』の原題)を相手にすることになった。

よいお年を。

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