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April 30, 2011

肩書

人は他人をその肩書で評価しがちであるし、また、自分を肩書が支えていると思っている人も多い。大学に勤めている人間など、「〜大学教授」という肩書をはずして、一個人として外部に通用する人は、著作などで名が売れている、ごく一部の人に限られるだろう。

また、学問の分野による肩書というのもある。言語に関する分野でも、「言語学者」と「国語学者」とはかなり違うと思われている。さらに「日本語学者」となると、どちらとも違う分野の人ととる人もいる。また、最近のように専門分野が多様化してくると、部外者には何をやっているのかわからないような学問の学者を自称する人も出てくる。

先日、田中好子さんが亡くなったとき、テレビで追悼番組がいくつも流されたが、本人へのインタビューで、「元キャンディーズのスーちゃん」から、「元キャンディーズの」がとれたことを喜んでいるような発言があった。実際、若い人の中には「女優・田中好子」としてしか知らない人も多いだろうと思う。

人が進路を変えるのは、それまでの自分とは別のものになりたがるからである。キャンディーズも「普通の女の子に戻りたい」と言って引退した。だから、いつまでも「元キャンディーズ」でありたくはないということだったのかもしれない。そして、田中さんは現に、「元云々」などなくても、一人の女優として立派な仕事をしてきたのは皆が認めるところである。

それでも、テレビでの追悼番組では、盛んにキャンディーズ時代の映像が流れた。その後の30年以上の女優としての映像を圧倒していたと思う。「ファン」を名乗る中年の男性たちも、ほとんどは「キャンディーズ」のファンであり、田中さん個人のファンであっても、それはあくまでも「元キャンディーズのスーちゃん」としてのファンなのだろう。

田中さんは、死を覚悟したとき、天国で東日本大震災の被災者の力になりたいと言っていたという。そして今、天国で喜んでいるのではないかと思う。一度は自らはずした肩書であるが、30 年以上たっても、自分を覚えてくれている人たちがこんなにも多くいたことに。

心から哀悼の意を表したい。

ところで、密かに恐れていることがある。いつの間にか、自分に「元言語学者」という肩書が付いてしまうのではないか、ということだ。そうならないように気をつけなくては。

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