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September 30, 2013

「ことば」を残す

言い古されたことわざだが、「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という。しかし、名よりも、人にまつわることとして残るのは、その人の言ったこと、書いたことではないだろうか。つまり、人は死んで「ことば」を残すのである。

もっとも、ソクラテスのように、自分の死後に、「ことば」が生きていたときの状態とは無関係に残るのが嫌で、著書を残さなかったと言われる哲学者もいる。彼の場合、弟子のプラトンが師匠の言ったこと、おこなったことを勝手に書き残してしまったために、ソクラテスの思い通りにはならず、後世のわれわれにはありがたいこととなったわけだが。

今、一人の友人の言語学者のことを偲んでいる。彼は、ことばが好きで、ことばを研究する人が好きで、ことばを研究する人と一緒にいることが好きだった。学者である以上、数多くの論文や著書を残しており、彼が残した「ことば」はかなりの量に上る。

しかし、ここでは、そういう公の「ことば」ではなく、記録に残されることはなかったかもしれない「ことば」を記録しておきたいと思う。

ずいぶん前の話になるが、今でも時折思い出すのは、彼が、ある指導学生の研究発表のときに、内容でなく、例文の作り方に注意をしたことである。言語学の論文では、しばしば例文を自分で作る。その言語の母語話者ならば誰でも容認するであろう例文と、誰も容認しないであろう例文を並べ、理論の予測を検証するのである。

例文には、議論のために、特定の文法構造をもたせる必要がある。例えば、主語と目的語をとる他動詞を含む例文が必要な場合がある。そんなとき、安易に他動詞を選ぶと、英語でも日本語でも、「殴る」とか「殺す」というような、よく考えると物騒な動詞を使ってしまいがちである。

彼は、そういう、例文のもつ暴力性に敏感だった。研究発表の場でも、当該の学生に「何度言ったらわかるんだ」というような言い方で、例文の中の動詞を批判していた。確かに、他の他動詞の例として、「褒める」とか「なでる」などがないわけではなく、意識的にそのような動詞を選ぶべきだったのだ。

彼、Stanford 大学の Ivan Sag は2013年9月10日に、3年近くの癌との闘いに敗れ、世を去った。以来、生前の彼の業績・人柄を偲ぶ文章は、数多くの友人によってインターネット上に掲載されている。ここに書いたのは、一つの個人的な思い出にすぎない。

Rest in Peace.

写真は2008年に来日の際、学長室で。
P7260533

大学のサイトの追悼文

 

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