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June 30, 2015

輸入品?

かつては、日本の学問は、「輸入学問」だと批判されることがあった。国文学とか日本史のように対象が日本に限定されているものはさておき、例えば、象の研究においても、象の食性や行動などの生態を自らの目で観察するのでなく、象が諸外国でどのように研究されてきたのかを日本語に翻訳して紹介するだけで「論文」としている、というような批判である。

これは、おそらく、研究対象に身近にいる人間の方が深い洞察ができ、そうでない日本人にできることには限りがある、というような諦めが先に立ってのことなのかもしれない。

しかし、学問の分野によっては、普遍性が当然とされることがある。物理学では、例えば、イギリス人のニュートンでなければ、リンゴが落ちることと月が落ちないことの間の共通性に思い至らなかったということはない。日本人が柿の落ちるのを見て、同じ洞察に至ったかもしれないのである。

より国民性に密接に絡んでいると考えられる文学においても、人間の心理の一面は、文化的な背景による特殊性もあるものの、つまるところ、人間の心理の多くの側面には、共通のものがあるからこそ、翻訳文学が読まれるのだろう。

音楽においても同じである。日本人には、雅楽とか民謡しか心地よい音楽として聞くことができない、ということはない。むしろ、ヨーロッパを発祥の地とする音楽を、ヨーロッパ人よりも適切に演奏できる日本人も多くいる。本学のチャペルから生まれた、鈴木雅明氏の率いるバッハ・コレギウム・ジャパンも、今や、「日本人による」という限定が不必要な、普遍的な演奏を世界に送り出してきている。

話を学問に戻すと、自分の関わっている理論言語学という分野でも、生成文法という、そもそもは、アメリカ人の言語学者が始めた理論に基づいて、いろいろな言語が分析されている。この理論による日本語の分析も、生成文法誕生の直後から数多く発表されてきている。これを「所詮英文法の焼き直し」だとか「日本語に西欧的な意味での文法はない」だとか言って批判する人が、かつては、いたように思う。これなどは、誕生地の個別性と成果の普遍性を区別できない無知からくる妄言だろう。

本学のようなキリスト教主義に基づく学校の教育も、もちろん、人類に普遍的な意義を感じるからこそなされているのである。決して、学生に西欧人のようになってほしいと思っているわけではなく、むしろ、イギリス人である創立者が感じた、松という日本的なものを生かした上での教育である。

生まれがイギリスであれ、アメリカであれ、普遍的な価値をもつものは素直に受け入れたい。原案が外国であろうと、翻訳であろうと、よいものはよいのである。

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