声色
先日、空港のラウンジでテレビを見ていたら、面白いことに気付いた。
空港のロビーやラウンジでは、テレビの音を出すと迷惑なので、字幕表示を有効にして音を消しているのが普通である。そこで、字幕でドラマのストーリーを追っていたのだが、複数の人物が登場する場合、人物によって字幕の色を変えていた。例えば、ヒロインは黄色、その夫は青という具合である。
このような色の使い方には意表をつかれた。音が聞こえる人には、その声によって、誰がしゃべっているかは自明だから、いちいち誰のセリフかという印は必要ない。しかし、字だけで場面を理解しようとする人にとっては、誰のセリフかがわかりにくい。話している人の口元が画面に映っているとは限らないし、ほとんど同時に話している場合には、口元が見えても混乱する。まさに声色を字幕の色で視覚化しているのである。
このように、字の色を変えて付加的な情報を伝えるということは、考えてみたら、自分でもやっていた。授業のときのチョークの色遣いである。
通常のテキストは白のチョークで書き、註釈的なものは黄色で、強調するところは赤で、というように書き分けるという趣向である。いや、書き分けようと心掛けているのだが、途中でごちゃごちゃになってしまって、色遣いが逆になってしまうこともあり、学生には迷惑をかけていると思う。
教室で黒板にチョークで板書をするというやり方はかなりの歴史がある。より最近のホワイトボードは、ペンがすぐに乾いて書けなくなったり、色のバリエーションが少なかったりで、今一使いにくい。
また、スライドを用意してスクリーンに映すのは、一見丁寧な授業のようであって、学生の側が受身になってしまいがちだという欠陥もある。スライドの一画面にはかなりの情報量があるので、学生に写させる手間を省いて縮小コピーを配ったりすると、下を向いたまま、メモもとらずに聞いて(寝て)いることもある。
チョークは、書く側から言うと、手が汚れたりするという問題はあるが、学生が書き写すのにほどよいスピードで書くことになり、学生も自然前を向くことになるので、一体感が生じるという、教師の側からの一方的な思い入れもある。
ところで、最近、ボランティアグループの学生から、現行のチョークの色も、視覚障害のある人にとっては見えにくく、それを改良したチョークが出ているということを知らされた。同じメーカーから出ていて、価格もそれほど違わないという。単純に色がついていれば情報量がふえるというわけではないということなのだ。このようなユニバーサル・デザインの製品は積極的に採用すべきだろう。
それにしても、板書のたびに思うのは、最近漢字が書けなくなったということである。
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