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2023年4月18日 (火)

過去のニューズレターより

今回は、過去の「神戸松蔭こころのケア・センター ニューズレター」の記事を掲載します。

 

「ちゃんと見て!」

 「おとう,見てー」。リビングで本を読んでいる私のそばに,人形やぬいぐるみを両手いっぱいに抱えた5歳の娘が寄ってきた。彼女は私のそばに座り,持ってきたものを床に広げると,「○○ごっこする」。てっきり遊びにつき合えということかと思って人形に手を伸ばしたら,「おとうは見てるだけでいいの!」と怒られた。『それなら本の続きが読める』と内心ほっとして,娘が遊んでいる傍らでしばらく読書に集中していた。すると突然,「おとう,ちゃんと見て!」。

 今回のことに限らず,おままごと,お絵かき,歌を歌っているところ,踊っているところ,等々,様々な場面で,彼女は私に「見ておく」ことを要求してくる。その際,遊びに参加するよう求められることもあるが,「見ておく」ことだけに私の活動が限定されることもしばしばである。だからといって,視線だけを彼女に向けながら,どうせ分かるまいと他のことを考えていたりしていてはダメなのだ。今回のように叱られるか,ひどく娘の機嫌を損ねることになってしまうのである。そうしたとき,こうした娘と私の関わりは,心理療法に似ているところがあるのではないかと思ったりする。

 最近私は,心理療法とは,「共にいること」「わかること」「わかったことを伝えること」なのではないかと考えるようになっている。そして,「共にいること」と,娘を「見ておく」ことが,その根底において共通しているのではないかと思えるのである。娘の「見て」は,物理的に視線を向けろということではなく,関心を自分に向けていて欲しいという要求だろう。一方の「共にいること」も,単にクライエントとセラピストが物理的な時空間を共有しているということだけでなく,クライエント自身やクライエントが関心をもつものに対して,セラピストの関心が向けられているという状態が含まれているに違いない。そしてその両方とも,決して簡単なことではないように思うのである。

 ・・・などということを考えているとまた,「おとう! ちゃんと見て!」。

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