「小さな一歩」
新入生の皆さま、ご入学おめでとうございます。在学生の皆さま、ご進級おめでとうございます。私は、本年4月よりここ神戸松蔭女子学院大学にチャプレンとして遣わされました長田と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、皆さんは今、新しい一歩を踏み出されて、喜びや期待と共に何とも言えない緊張や不安でいっぱいになっていることと思います。私も今年3月末に広島から引っ越して来て、神戸での生活に色んな期待もありますけれど、それと同じくらいの不安と緊張があります。でもそのような時にこそ改めて聞いておきたいのは、イエス様が『幸い』、つまり幸せについて教えておられる聖書の言葉です。そこでは、『心の貧しい人々(悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々)は幸い』(マタイによる福音書5:1-12)とあります。しかしそこで語られているイエス様の言葉は、そのままであれば『幸い』だとは思えません。むしろ不幸せです。おそらく当時の人々も、私たちと同じように感じていたことでしょう。そればかりか、心の貧しさから、心の飢え渇きから、悲しみから救われること、それでこそ幸せになれると考えていたでしょうし、だからこそその不幸せな状態から助けて欲しいと強く願っていたはずです。
しかしイエス様は、そうじゃないと仰るのです。あなたがたは自分のことを不幸だ、不幸だと言ったり思ったりしているけれど、またこんなに貧しくて、辛くて、大変で、こんなの全然幸せなんかじゃないよって思っているけれど、「そんなことはない、あなたがたは幸いなんだよ」と語られているのです。そしてイエス様は、それを私たちにも語ってくださっています。あれもない、これもない、その「ない」「ない」から抜け出す力も「ない」、あるのは不安や心配、緊張、そして過去の失敗であったり、後悔であったり、どうしてこんなにしんどいのか、どうして自分ばっかりなのか、幸せなんてどこにもないじゃないかって叫ぶ私たちにも対しても、イエス様は「そうじゃない、あなたは幸いなんだよ」と語ってくださっているのです。「わたしと一緒に生きて欲しい。わたしはここにいる。わたしはあなたといつも一緒にいる。だから、あなたは不幸なんかじゃないよ」イエス様はそのように、私たちにも語りかけてくださっています。
現代に生きる私たちは、お金とか家とか権力とか権威とか、その他何でも持っていることが「幸せ」と思いがちです。しかしそのようなものがなくても、生きていく希望、それがどんなに小さい希望であっても、それを持てることが「幸せ」のような気がしています。イエス様が一緒にいてくださっている、どこにいても、どんなになっても、いつも一緒にいてくださっている、そのことを知ること、それこそが決してなくならない幸せの「素」なのだと私は信じています。
もちろん、だからと言って、不幸だと思っていた現実がすぐになくなるわけではありません。でもそのような厳しい現実の中で、「小さな一歩」を踏み出そうという気持ちがちょっと出てくるような気がしています。それは本当に小さな一歩かもしれません。それでもきっと、それは確かな一歩になるに違いないと思います。だからこそ、「あなたがたは幸いなんだよ」というイエス様の言葉に何度も何度も立ち返り、しんどくなった時も、不安な時も、緊張している時も、どんな時でもイエス様のその言葉を心に留めて、明日のことまで煩わず、一日一日をそれぞれのペースで歩んでいきたいものであります。
God’s grace be with you all.
チャプレン長田吉史(おさだよしふみ)
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