2017年2月15日 (水)

第8回 灯台下暗し

神戸と聞いてイメージするのは、港であり、海沿いに東西に広がっている市街地でしょう。本学のキャンパスから見晴らせる神戸の街もそのイメージ通りの風景です。しかし、そのような風景は面積で言えば神戸市の一部を見ているに過ぎません。六甲山地とその北側や西側の丘陵地帯の方がより広い面積を占めています。都市近郊の農地が少なからずあり、野菜や果樹など様々な農産物が作られているそうです。

私はこのブログで以前に、現代の都市生活では物やサービスがどのように作り出されているか意識せずに消費できてしまうという点は問題であり、私たちが消費しているものがどのように生産され、加工され、流通しているのか時々は意識するべきだというようなことを書きました。偉そうにそう書いておきながら、すぐ見に行けるような場所で作られている都市近郊の農作物に無関心な自分自身に今更ながら気づかされました。

昨年のことになりますが、本学の生活学科都市生活専攻(2017年度より都市生活学科)の花田ゼミチームが「KOBE ”にさんがろく”PROJECT」アイデア提案会でグランプリを受賞しました。兵庫県下の大学がいくつも参加する中で、花田ゼミは2年連続のグランプリ受賞ということになります。「KOBE ”にさんがろく”PROJECT」だけでは、どんなコンテストかほとんどわからないと思いますが、神戸市が行っている神戸産農水産物を素材にした商品の企画・提案プロジェクトです。

農業・漁業に携わる一次産業者、加工・製造を行う二次産業者、流通・販売の三次産業者とともに学生たちが商品提案を行うので、1×2×3=6と捉えて「にさんがろく」と呼ぶそうです。すなわち、学生のアイデアが、生産者の方々との協力により実際の形になった上で審査されます。グランプリに選ばれた作品と、協力していただいた生産者の方々については以下のページをご覧ください。

花田ゼミが2年連続でKOBEにさんがろくPROJECTのグランプリを獲得!

学生たちは農産物の生産から商品化までの過程を、単に知識として学ぶのではなく、商品開発という目的で現場に行ってプロの方達に教えていただくという貴重な体験をすることができました。その間私は、机上で理屈をこねてもっともらしいことを書いていただけなのですから、お恥ずかしい話です。

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2017年1月 6日 (金)

第7回 光に満ちた生活

新年おめでとうございます。

年明けは新春や迎春という言葉で祝われますが、私は子どもの頃から、これからさらに寒くなっていくにも関わらず「春」という言葉が使われることやまだ咲いてもいない梅が飾りに使われることに違和感がありました。後に、旧暦の正月が新暦の2月初旬ごろであり、これから春に向かう立春であるとともに梅の咲き始める時期であることを知ってようやく 理由がわかりました。加えて、節分の豆まきが元々大晦日の行事であったことを知って、行事の意味が理解できました。旧暦の季節感覚を一カ月以上早めて新暦にあてはめる一方で、節分などは旧暦の日程で行われているのですから、違和感があるのは当然かもしれません。

旧暦の新年がこれから暖かくなって春に向かうことを祝うのに対し、新暦の新年は本来、冬至を超えて日が徐々に長くなっていくという季節感と結びついています。キリスト教では、冬至のすぐ後のクリスマスから新年まで一連の行事ですが、冬至明けのお祝いという側面があるようです。

本学はキリスト教系の大学ですので、キリスト降誕祭であるクリスマスは重要な行事です。クリスマスシーズンには、ツリー点灯式、キャンドルサービス、クリスマス礼拝・祝会、クリスマスコンサートと行事が続きます。これらの行事では、ツリー点灯式やキャンドルサービスなど光を灯すことが行事の中で重要な役割を果たしています。これは、夜が最も長い冬至の時期において、光が希望の象徴として大きな意味を持っていたからでしょう。

今、私たちは物理的な意味で光に満ち溢れた生活を送っています。特に大都市においては、本当の意味での暗闇はもはや経験できないほどです。都市の人工的な光は、発電所から各家庭までの送電設備といった膨大はインフラによって実現されています。都市生活ではもはやあたり前となり普段はほとんど意識されることはありませんが、大規模災害の時には否応なく考えさせられます。東日本大震災の時には、電気の重要性が改めて身に沁み、どのような方法で電気を作り出すか考えざるを得ませんでした。節電も盛んに訴えられていましたし、必要なことと受け止められていました。

しかしあれから6年近くが経ち、節電という言葉はほとんど聞きません。都市は当然のように光に満ちています。もちろんそれは幸せなことですが、新年を迎えたこの時期に、ろうそく1本が貴重であり、そのわずかな光に冬至空けの希望を感じた時代に思いをはせてみることも必要でしょう。

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2016年11月30日 (水)

第6回 都市の中の非日常

11月20日に神戸市立博物館と本学の間で研究教育連携協定を締結しました。博物館の館長、副館長にはわざわざ日曜に、ちょうど大学祭当日であった本学キャンパスまで来ていただきました。今年の大学祭テーマは「結(ゆい)」であり、新しい結びつきを始める場としてふさわしいと考えたためです。

言うまでもないことですが、博物館の存在は教育の面でも重要です。大学での学びの目的の一つは、人間が作り上げてきた様々な文化について学び、世界を見る広い視野を持ち、芸術に対する感性を養うこと、すなわち教養教育ですが、教室で学ぶだけでは限界があります。例えば、12月23日から神戸市立博物館で古代ギリシャ展が始まります。ギリシャ時代については教科書や授業で必ず出てくるので、皆多少なりとも知識を持っていますが、本物のギリシャの彫刻や出土した工芸品、道具類を実際に目にして、教室の学びと結びつけることで、初めて身についた教養となっていきます。しかも、昨今の展覧会は興味を引くように展示や解説が工夫されており、とてもわかりやすいです。

しかし、私にとって博物館の魅力はそれだけではありません。

現代都市は非常に機能的で便利な場所です。だからこそ都市には、機能的という言葉からほど遠い雰囲気の場所が必要だと感じます。日頃の仕事や悩み事を忘れて日常と異なる雰囲気に身を置くことで、心が安らぎます。私は博物館や美術館に行くことが好きですが、博物館や美術館が日常とは異なる時間と空間を作り出しているからです。ですから、優れた文化遺産や美術品の展覧会が企画されているというだけでなく、立地や雰囲気が大事なように思います。そういった点で神戸市立博物館は理想に近い博物館です。博物館のある場所は、三宮からほど近いビジネスの中心地ですが、旧外国人居留地という場所柄レトロな建物が点在しており落ち着いた雰囲気です。その中でも博物館は、80年以上前の銀行を再利用した旧居留地を代表する風格ある建物で、入る前から非日常性を感じさせてくれます。

神戸市には、海に面した新都心という立地の、安藤忠雄設計の現代的な兵庫県立美術館もあります。趣の全く異なる二つの立派な施設はそれぞれに神戸の魅力をあらわしています。学生たちには、気軽に博物館・美術館を訪れて優れた展示を鑑賞するとともに、都市の中の非日常に身を置く喜びも感じてもらえればと思います。

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2016年10月31日 (月)

第5回 消費の欲求

前回、私が担当する授業で買い物をする心理について考えていると書きました。「買い物をする心理」といっても、売り場でどれを買うことに決めるのかという商品選択の心理、どれくらいの金額を支払ってよいと思うのかという価格の心理など幅広いのですが、そもそもなぜ買い物をしたいのかということから考えてもらっています。もちろん、その答えの一つは「生きていくために必要だから」でしょう。その場合は、買い物は必要なものは手に入れるための手段に過ぎないということになります。しかし、買い物自体が楽しみという場合が少なくありません。生活に必要な物を買う以外に買い物をするのはなぜかという質問を学生にすると、物欲があるから、ストレス発散のためといった答えが返ってきます。

物欲とは何でしょう?とにかく物を手に入れたいのであれば、できるだけお金のかからないものにすればよいのですが、そうとも限りません 。ストレス発散になるというのもよくいわれることですが、買い物をすればお金が減るのでむしろストレスになりそうです。物欲もストレス発散も実はほとんど何も説明していません。買い物に限らず、自分自身がなぜ「・・・したい」と思っているのか、それをすることによって本当は何が満たされるのか、はっきりと説明できないことは珍しくありません。授業では、「・・・したい」という気持ち(欲求)は心理学でどうとらえられているのか、人間はどんな欲求を持ちやすいのかを学びながら、物欲の正体は何か、買い物がなぜストレス発散になるのかを考えていきます。

物や情報があふれた現代の都市生活では、自身の欲求を客観的に見る目を持つことが、欲求に振り回されない第一歩になるのではないでしょうか。欲求とは何か、現代社会における欲求のコントロールについては、「暮らしの中のカウンセリング入門」(北大路書房)という本の、「欲求」との付き合い方、と題した一節に書きましたので読んでいただければと思います。授業の紹介といいながら本の宣伝になってしまい恐縮ですが、この本は本学心理学科開設15年を記念して企画し、心理学科編集で出版されたものです。私が書いたのは心理学の知識を暮らしに生かす部分であり、カウンセリングの解説ではありませんが、全体としてはカウンセリングについて分かりやすく学べる本になっています。

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2016年9月29日 (木)

第4回 都市の象徴

多くの大学では一年間を前期と後期に分けて授業をしています。本学では9月26日から後期授業が始まりました。私が担当する授業の一つに「生活行動Ⅳ(消費行動)」という授業があります。前回、「快適な消費」の裏側にある生産過程に時々は目を向けようといったことを書きましたが、私の授業では「消費」そのものに目を向けています。具体的には、買い物をする心理について考えます。

今の生活では買い物をするのが当たり前というか、買い物をしないと日々の生活が成り立ちません。そして、買い物をすることは生活の中での大きな楽しみとなっています。人類の歴史という長い目で見ればこういった生活スタイルが貴族や金持ちではない一般の人々にまで浸透したのは、ここ最近の話です。と、歴史の専門家でもない私が説明するのは気恥ずかしいのですが、生まれたときからスーパーマーケットで買い物をするのが当たり前という今の学生に、買い物の歴史を知ってもらうことは、買い物について一から考え直すきっかけになります。

特に私は、デパートの成立と発展について調べて話すのが好きで、毎年必要以上に時間を割いてしまいそうになります。それは、私にとってデパートが都市を象徴する場所だったからです。私は高度成長期の1960年代に幼稚園・小学生時代を過ごしました。当時は近所の商店街や市場で買い物をするのが普通で、ショッピングモールどころかスーパーマーケットも近所にはありません。ですから、デパートは買い物をする場所として格段に豪華で非日常的でした。

もちろん私自身が買い物をするわけではなく、バーゲンが目的の母親に連れていかれていただけなのですが、唯一外食できる機会でしたし、当時のデパート屋上は小さい観覧車や乗り物がある小さな遊園地でした。デパートについて話すときはついつい熱を帯びてしまいます。大食堂でホットケーキを食べる喜びは特に伝えたいところですが、当時のおやつ・デザート事情から説明しないと理解されそうにないので断念しています。

都心の大型デパートは今も健在ですが、昨今デパートはすべての年代が集まる場所ではなくなりました。子ども連れの家族にとってかつてのデパートの役割を果たしているのは、大型ショッピングモールでしょう。映画館やデパートさえ併設されており、より進化していると言えます。ホットケーキの方は、家庭で作る身近なおやつへと大衆化した後、最近になってパンケーキと名を変えてスイーツに進化したようです。

授業の紹介のつもりが、デパートの話になるとやはり脱線してしまいました。次は、もう少し授業内容に沿った話をしたいと思います。

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2016年8月30日 (火)

第3回 快適な消費

 8月6日に、関西圏の3女子大学(奈良女子大学、武庫川女子大学、本学)の研究者が集まり第2回異分野交流会が行われました。この会のユニークな点は、様々な分野の研究者の発表があるだけでなく、発表後に異分野の研究者達がグループワークを行う点にあります。私は、発表はしなかったのですがグループワークに参加しました。そこで取り上げられた研究発表には、小学校で豚を育てて最後にはその肉を食べるといういわゆる「命の授業」の生徒への影響を調べた研究や、インターネットによる大学からの情報発信を取り上げた研究などがありました。現実的でアナログなテーマから、非現実的でデジタルなテーマまで大きな幅があったわけですが、グループワークでの意見交換の中で私が強く感じたのは、現代の都市生活では物やサービスがどのように作り出されているか意識せずに消費できてしまうという点です。
 動物を飼育して最後は食べるという授業は様々な意義を持つようですが、できあがった料理をおいしくいただくまでにどんな生産過程があるのか意識するようになることでしょう。生産過程には、命あるものを殺して食べ物としているのだという不快な事実も含まれています。食べ物の生産といったレベルであれば、少しは自給自足して体験してみることや、どのように生産されているか見聞きして理解することが可能な気がします。一方、インターネットを通じた消費、例えばスマホでアプリをダウンロードしてゲームや音楽配信サービスを利用するとなると、どのように作り出されてどんな経路で手元に届いているのか説明されてもよく理解できません。そもそも、その場でお金を払わないので消費しているという感覚さえ希薄です。私のようなアナログ世代の人間は、なにか納得できない気持ちが残り、すんなり快適に利用しようという気になりません。
 もっとも、食べ物の生産過程は理解可能である、というのは単なる思い込みに過ぎないのかもしれません。国産の豚や牛にしてもスーパーマーケットの店頭に並ぶまでにはかなり複雑な過程がありそうです。餌は外国から輸入されていますし、多数の個体が高度な技術で工場のように飼育されている場合もあるでしょう。食肉に加工して冷蔵ないし冷凍保存し、様々なチェックを経て商品となるまでには、多くの人が関わる複雑な過程がありそうです。
 しかもこれからは、車の自動運転をはじめとして、AI (人工知能)による生産やサービスの提供が現実のものとなっていきます。生産の過程はもはや人間の手を離れ、消費者にはますます理解できないものになっていきます。理解できないことに慣れてしまえば、ややこしくて不快な部分を知ることもない「快適な消費」が約束されることでしょう。しかし、例えその一端しか理解できずもやもやしたままであっても、また不快な事実が含まれているとしても、どのように生産されているか気に掛けることは続けていくべきでしょう。

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2016年7月19日 (火)

第2回 都市生活者の能力

 私は電車通勤しているのですが、毎日何百人いや多分何千人という見知らぬ人とすれ違っています。大都市に住んでいればあたり前のことですが、大げさに言えば、人類の歴史では特異な状況です。人類の歴史は700万年とも言われていますが、都市と呼べる場所ができたのは数千年前に過ぎません。都市ができてからも都市生活者は人類のごく一部で、大部分の人は小さな集落、ほぼ顔見知りのメンバーから成る集落での生活で、知らない人に出会うことなど滅多になかったでしょう。
 さらに、江戸時代の京や大坂のような当時の大都市でも、商人や職人の多くは職場と住居が離れていませんし、買い物に出る場合でも馴染みの店に行くのが普通でした。多くの見知らぬ人と出会うのは、少し遠出をしたときや祭りなど限られた場合だけでしょう。このように状況が変わったのは、言うまでもなく鉄道や車によって移動できる範囲が格段に広がったためです。せいぜいここ100年ほどのことに過ぎません。
 私は歴史の専門家ではないのですが、「対人コミュニケーション論」という授業でこのような歴史に触れ、現代の都市生活の特殊性について話をしています。人間関係やコミュニケーションもまた特別なものとならざるを得ないからです。
 その一つは、日常的に人を見た目で判断する、ということでしょう。もちろん私たちは、人を見た目で判断してはいけない、ということをモラルとして理解していますし、見た目と中身のギャップがある人がいることも知っています。しかし、人を見かけで判断せざるを得ない場面に頻繁に遭遇します。例えば、電車に乗ったときに、座る場所や立ち位置に多少選択の余地があったとしたら、一見怖そうな人の近くにわざわざ行く人は少ないでしょう。見た目は怖いが優しい人がいるとわかっていても、人となりを判断するためにじっくり話をしてみるというわけにはいきません。多くの場合は、深く意識せず瞬間的に周りの人を判断して自分の居場所を決めるのではないでしょうか。
 しかも、人を見た目で判断するのは年々難しくなっているように思われます。昔は、性別、年齢、階級によって着る服がほぼ決まっていました。私の子どもの頃(昭和です)は、服装も自由になってきていましたが、突っ張った人や不良(昭和的表現で申し訳ありません)は、それなりの格好をしていたような気がします。少なくとも、突っ張った服を着る人にはこれから服に合わせて突っ張った性格になろうという意志がありました。今は、ファッションとして様々な服を着るので、そう単純ではありません。現代の都市生活者は、人を見た目から判断する能力をますます磨いているのかもしれません。
 このように書いていて自分のことを思い返すと、通勤電車の中で座っている人がどの駅で降りそうか、外見から判断する能力を磨いていることに気付きました。言うまでもなく、早く降りる人の前に立っていれば座れるためです。お恥ずかしい話です。

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2016年5月16日 (月)

第1回 都市という不自然

 4月中旬から九州北部で地震が連続して発生し、熊本県を中心に大きな被害が出ています。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様にお見舞い申し上げます。突然の出来事であり、いつどこで大地震が起きるか予想できないことをあらためて思い知らされました。
 関西に住む私たちは、大きな地震の度に1995年の阪神淡路大震災を思い出します。当時私はまだ本学に勤めておらず、大阪で地震の揺れを感じて目を覚ましました。揺れが収まってまず考えたのは、その頃警戒されていた東海地方以東の大地震の可能性であり、神戸で大きな被害が出ているとは全く想像しませんでした。その1年3か月後に本学で働き始めた時は、震災の爪痕が各所に見られましたが、同時に復興工事が活発に行われていました。震災から5年ほどの間に道路整備や建物の再開発はほぼ終わり、仮設住宅も見られなくなりました。
 そのように思い返してみるとどうしても比較してしまうのが、今年の3月に発生から5年を経過した東日本大震災の復興です。ニュース報道や特集番組がいくつも放送されましたが、原発事故のため避難した地域はもとより、津波の被害を受けた地域でも、建物の再建どころか整地の段階にすぎないところもあり、阪神淡路大震災とは異なる復興の難しさを再認識しました。特に印象に残ったのが、場所によっては山ごと削って運びだした土砂によって市街地となる場所を10m近くかさ上げしていくという造成工事です。津波から街を守る必要性から計画されたものと理解する一方で、そのあまりに大規模で人工的な光景に圧倒され、これで本当に良いのかと感じたのも事実です。
 しかし、六甲山麓に建つ本学のキャンパスから見渡せる神戸の街と大阪湾の光景に目を向けると、そこには、東北の被災地で進行中の造成をしのぐような大規模工事による埋め立て地をいくつも見出せます。そして、私が大阪の自宅を出てから大学に着くまでの1時間半もの通勤の間に一歩も土を踏んでいないということを思い返し、神戸から大阪までの広大な市街地のほとんどはコンクリートとアスファルトに埋め尽くされているという当たり前の事実に今更ながら驚かされます。東北の被災地の造成工事に懐疑の目を向けている私自身が、すでに行われた造成工事の結果である都市で快適に暮らし、そこから決して離れようとせず生きています。
 ご挨拶が遅れましたが、前学長に引き続きブログをすることになりました。季節の事柄や学内行事を取り上げ、そこから話を広げて味わいのあるエッセイにうまくまとめ上げるという才はなく、題材を決めておかないと続きそうもありません。しばらくは「都市・まち」に生きる私たち自身に目を向けて書いていきたいと思います。

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